第4話 葬式のない町
瀬川葬祭は、役場の通りから一本入った角にあった。
木の看板の文字は日に焼けて、「瀬川」の「瀬」がほとんど読めなかった。ガラス戸の内側に、色の褪せた祭壇の写真が貼ってある。昭和の終わりに撮ったものだろう。
「真壁さんとこの。ほんまに、すまんな」
瀬川治は、痩せた背中を丸めて頭を下げた。七十一歳。咳をするたびに、肩が大きく揺れた。この町でただ一軒の葬儀屋を、もう二十年も一人でやっているという。
「若い者は、みんな町を出てしもうたけんな。わし一人や」
日下部さんの遺体は、奥の霊安室に安置されていた。
警察から戻ってきたのは前の日の夕方だという。ドライアイスを替え、白いシーツをめくった。
溺れた人の遺体には、何度か関わったことがある。長く水に浸かった遺体は膨れ、肌の色が変わり、俺たちの手には負えなくなる。日下部さんは、そうではなかった。湖に落ちてから見つかるまで、半日もたっていない。顔は少し白くむくんでいる程度で、眠っているように見えた。
手の指先だけが、ふやけて白く皺になっていた。漂母皮という。水仕事のあとの指が皺になるのと同じだ。
湯灌の支度をしながら、俺はいつものように手を見た。
大きな手だった。指が長く、関節が太い。右手の中指の第一関節の横に、硬いペンだこがあった。字をたくさん書く人の手だった。今どき珍しい、と思った。
体を清めるために、寝間着の袖を抜いた。
両方の二の腕に、痣があった。
右にも左にも、同じように並んでいた。腕の外側に四つ、内側に一つ。楕円の、濃い紫色の痣だ。
指の跡だった。
誰かが、両側から日下部さんの腕をつかんでいた。それも、相当な力で。
車の事故の遺体なら、つく傷は決まっている。シートベルトの帯の跡が肩から胸に斜めに残り、エアバッグの擦れ跡が顔や腕に出る。日下部さんの胸には、ベルトの跡がなかった。肩にも、首にもない。顔にも腕にも、擦れた跡はない。
あるのは、二の腕の指の跡だけだった。
「瀬川さん。これ」
瀬川は老眼鏡をずらして、痣を見た。
「ああ。引き上げのときやろ。消防の若いのが、窓から引きずり出したんや。重いけんな、誠ちゃんは」
そうかもしれない、と思った。そうでないかもしれない、とも思った。
死んだあとについた痣は、色が薄く、輪郭がぼやける。血が巡っていないからだ。生きているうちについた痣は、こんなふうに濃く、くっきりと残る。
けれど、それは俺が判断することではない。俺は葬儀屋で、医者でも警察でもない。俺は黙って、二の腕を温かいタオルで包んだ。
◇
納棺を終えて、帳場の奥で番茶をもらった。
瀬川の机の後ろの棚に、分厚い帳面がずらりと並んでいた。背に、年号と年が墨で書いてある。昭和四十九年、昭和五十年、と続き、平成に入っても続いている。
途中から、急に薄くなっていた。
平成九年までの帳面は、どれも指二本分ほどの厚みがあった。平成十年からは、指一本にも満たない。令和の分は、何冊かをまとめて紐で綴じてあった。
「この町は、葬式のない町や」
瀬川は、湯呑みを両手で包んで言った。
「年に三件か、四件。それも、若いもんの事故か、町の外の病院で死んだ人ばっかりや。年寄りの葬式は、もう長いこと出しとらん」
「でも、これだけお年寄りが多ければ」
「年寄りが、死なんのよ」
瀬川は、乾いた声で笑った。
「長寿日本一やけんな。百を超えた人が、町に三十人おる。人口二千ちょっとの町にやで。テレビも来た。新聞も来た。わしの商売は、あがったりや」
そう言って、また咳をした。笑い話のつもりのようだった。俺は笑えなかった。
人口二千人。高齢化率が五割を超える町なら、普通は年に何十人も亡くなる。俺の勤める会社なら、それだけで社員が一人食べていける数だ。
表のガラス戸が開いて、白衣の上に紺のジャンパーを羽織った老人が入ってきた。
「おう、治。誠ちゃんの、持ってきたぞ」
宇野恭介。町に一つしかない診療所の医者で、警察から頼まれて遺体を診る嘱託医でもある。七十二歳。赤ら顔で、声が大きかった。死体検案書の写しの入った封筒を、瀬川の机に置いた。
「こちら、真壁さん。トキさんとこのお孫さんや。東京で葬儀屋をしよる」
「ほう。トキさんとこの」
医者は、俺を上から下まで見た。
「トキさん、二十一日で百やな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「寿ヶ淵の年寄りは、死なんのでね。わしの書く診断書も、若いもんのばっかりよ」
医者は、瀬川と同じことを言って、同じように笑った。この町では、それが決まり文句なのかもしれなかった。
「先生。日下部さんの腕の痣は、ご覧になりましたか」
医者は、笑ったままの顔で俺を見た。
「引き上げのときのやろ。水の中から出てきたもんは、みんな痣だらけになる」
「シートベルトの跡が、なかったんですが」
「締めとらんかったんやろ。酔うとったけんな」
医者は霊安室のほうへ目をやった。
「誠ちゃんも、飲まんかったらなあ。あのカーブのガードレールが直っとったら、落ちんで済んだかもしれん」
「ガードレール?」
「春に、材木のトラックが当てたんよ。それからずっと、ロープ張っただけや。磯貝建設の工事待ちでな。町長とこの会社よ。いつになったら直すんかの」
来るときに見た、ひしゃげたガードレールを思い出した。春から、半年近く。あの道は、ダムへ下りる旧道だ。夜は街灯もない。
医者は、それからしばらく瀬川と町の噂話をして、帰っていった。
見送りに出た瀬川が、ガラス戸の外で医者と何か話していた。戸が半分開いていて、声が聞こえた。
「トキさんとこの孫は、いつまでおるんや」
「二十一日の祝いまで、おる言いよった」
「ほうか」
医者の声は、さっきまでの大きな声ではなかった。
「ほうか。二十一日までか」




