第5話 通夜
通夜は、公民館の大広間でおこなわれた。
瀬川葬祭の小さな式場では、とても人が入りきらないからだ。九月二日の晩、日下部さんが家族会に出ていたのも、この公民館だった。
夕方五時を過ぎると、人が集まりはじめた。
腰の曲がった老人が、杖をつき、家族に手を引かれて、次々に入ってきた。車椅子の人もいた。この町に、これだけの年寄りがいたのかと思うほどだった。受付の芳名帳は、六時を回る前に二冊目に入った。
焼香の列が、廊下の外まで伸びた。
俺は祭壇の脇に控えて、焼香の作法が分からない人に小声で手順を伝えた。そのたびに、年寄りたちは俺の手を握って礼を言い、それから祭壇の写真を見上げて、日下部さんの話をした。
「誠さんにはなあ、うちのばあちゃんを最後まで送ってもろうて」
「うちのじいちゃんもよ。日下部さんに送ってもろうた。ほんまに、ようしてくれた」
「この町の年寄りは、みんな誠ちゃんに送ってもろうたんよ」
誰もが、同じことを言った。
町には病院がない。総合病院は、山を下りて一時間半かかる市にしかない。年寄りたちは、日下部さんの白いワゴンで病院へ通い、役場へ通い、最後は市の病院まで送ってもらったのだろう。俺はそう思って聞いていた。
導師は、浄念寺の住職だった。
八十を超えているだろう小柄な僧侶で、読経の声は細いのに、不思議とよく通った。経を読みながら、住職は何度か、祭壇の写真ではなく、焼香の列のほうを見ていた。
弔辞は、町長の磯貝隆一が読んだ。
六十八歳の、恰幅のいい男だった。仕立てのいい喪服を着て、低く響く声で話した。
「日下部誠さんは、この町の長寿を支えた人でした」
大広間が、しんとした。
「この町には今、百歳を超える方が三十一人いらっしゃいます。人口あたりでは、日本一です。その三十一人の方々は、みな、誠さんに見守られてこられました。誠さんは、雨の日も雪の日も、白い車で町を回り、一軒一軒の戸を叩いて、お年寄りの声を聞いてこられた」
すすり泣く声が、あちこちから上がった。
「誠さんがいなければ、この町の長寿はありませんでした」
町長は、そこで言葉を切った。原稿から顔を上げ、参列者を見渡した。
「誠さん。長い間、ご苦労さまでした。どうか、安らかに」
拍手が起きそうな空気だった。
◇
通夜振る舞いは、大広間の隣の和室でおこなわれた。
長机に寿司と煮しめの大皿が並び、ビールと日本酒の瓶が立った。台所との間を、割烹着の女たちが行き来する。その中に、ミツさんがいた。小さな体で盆を抱え、湯呑みを配って回っていた。口の左端のほくろが、灯りの下でやけに黒く見えた。
母もいた。黒いエプロンをかけて、テーブルを回りながら、コップに水を注いでいた。長寿水だった。
「はい、透も。喉かわいたやろ」
母が注いでくれた水を、俺は一息に飲んだ。冷たくて、ほんのり甘かった。
酒も、何度か注がれた。いつものように、受けて、唇を湿らせ、卓の下に置いた湯呑みに移した。
年寄りたちの話は、自然と九月二日の晩のことになった。
「誠さん、珍しゅう飲んで、止めたのに車で帰ったんよ」
隣のテーブルで、白髪の女が言った。
「誠さん、珍しゅう飲んで、止めたのに車で帰ったけんな。わしらも止めたんやけど」
向かいの席の、作業着の男が言った。
「誠さん、珍しゅう飲んで、止めたのに車で帰ったんやもんな。可哀想に」
廊下で、杖をついた老人が言った。
三人とも、同じ言葉だった。
俺の仕事では、人がどう死んだかを、遺族や知人から何十通りも聞く。同じ死に立ち会った人でも、話は一人ひとり違う。誰が最初に気づいたか、何時だったか、どんな顔をしていたか。覚えていることも、覚えていないことも、人によってばらばらだ。それが普通だ。
一字一句同じ話は、普通、二人以上からは出てこない。出てくるとしたら、それは、誰かが先に決めた話だ。
春奈さんの言ったことを思い出した。彼女は、部屋の隅の席に一人で座り、膝の上で両手を握りしめたまま、家族会の人たちを見ていた。
「あんたが、トキさんとこの孫さんか」
制服ではなく、黒いスーツの男が隣に座った。五十代半ば、四角い顔に、日焼けした太い首をしていた。
「駐在の坂巻です。現場は、わしが見た」
「ご苦労さまです」
「可哀想になあ、誠さん。わしも、まさか飲んで運転するとは」
坂巻は、ビールを手酌でついだ。
「車は、どちらに」
「町のレッカー屋に置いとる。もう調べは終わったけん、明日にでも娘さんに見てもろうたらええ。廃車にするにしても、中のもんは出さんといかんやろ」
坂巻は、ビールを一気に飲み干した。それから、俺の湯呑みの中をちらりと見た。湯呑みには、俺が移した日本酒が、底から二センチほどたまっていた。
「あんた、飲まんのか」
「明日、葬儀なので」
「ほうか。真面目やな」
坂巻は笑って、席を立った。
母が、空いた席に腰を下ろした。
「疲れたやろ。あんたが来てくれて、瀬川さん助かったって」
「母さんも、二日の晩、家族会に出とったんか」
母は、俺の顔を見ずに、おしぼりを畳み直した。
「出とったよ。でも私は、早うに帰ったけん。おばあちゃん一人にしとったら、心配やろ。誠さんのことは、あとで聞いたんよ」
「誠さん、飲んどった?」
「さあ。私が帰るときは、まだ麦茶やったと思うけど」
母は、おしぼりを置いて立ち上がった。
「片付け、手伝うてくるわ」
◇
十時を過ぎて、ようやく人が引けた。
蝋燭と線香の番を瀬川と交代して、俺は公民館の外へ出た。
夜の空気は、湖の匂いがした。公民館の前の道は、そのまま湖岸の道へ下っていく。街灯は一本しかなかった。
その街灯の下に、二つの人影があった。
一つは、小さくて、腰が曲がっていた。ミツさんだった。もう一つは、母だった。
二人は、湖のほうを向いて、低い声で何か話していた。言葉は聞こえなかった。ミツさんが母の手を取り、その手を両手で包むようにして、何度か小さく揺すった。母は、うつむいてそれを受けていた。
しばらくして、母が顔を上げ、こちらを振り向いた。
街灯の光が、母の顔を半分だけ照らしていた。
知らない人の顔だった。
それから、母はすぐに笑った。いつもの顔で、俺に手を振った。
俺も、手を振り返した。
二十二年前の雪の晩、白いワゴン車の窓越しに、日下部さんに手を振ったときと、同じように。




