紅蓮公急襲
エリーゼ達が王都に行ってすぐ、執事のアルバートが古い館にやって来て、うやうやしく言った。
「リリアーヌ姫。お部屋の準備が整いました。どうぞ本館においで下さい」
「アルバート。あなた正気なの?お義母様が知ったら、貴方は首になるわよ」
リリアーヌの言葉にアルバートは鼻を鳴らした。
「ふん、あれらは王子に尻尾を振る事しか考えてはおりますまい。今、館に残っているのはローゼンベルク侯爵に忠誠を誓った者たちばかりでございます」
「お父様は?お父様はご無事なの?」
「侯爵夫人の目が光っておりましたから、お守り出来ませんでした。しかし毒薬だけは、無害のものとすり替えております。本日からはリハビリも開始します。きっとすぐに歩けるようになるでしょう」
「アルバート。貴方はお義母様の言いなりだと思っていたのに」
「お守りできずに申し訳ございません。しかし首になってしまっては、侯爵閣下も姫様もお守りできなくなります。陰で僅かな事しか出来ませんでしたが、この館に、奴らの息のかかった者は残っていません。どうか安心して本館にお戻りください」
リリアーヌは頷きセーラを呼んだ。
アルバートは少し驚いたように眉を上げたが、ゆっくりと言った。
「セーラ。あなたが姫様を残して逃げ出すはずは無いと信じていました。その顔は誰に治癒していただいたのですか?」
「アルバート様、顔は神龍様に治療して頂きました」
「セーラ、私の事はアルバートと呼んで下さい。あなたは姫様の専任侍女。身分は同格です。あなたがへりくだれば、姫様の格まで下げてしまいます」
セーラははっとしたように、アルバートとリリアーヌに目をやった。そしてしっかりと頷くと言った。
「ありがとうございます。アルバート。感謝いたします」
アルバートは、大きく頷くと、もう一度リリアーヌを促した。
「姫様、どうぞ本館へお戻りください」
今度はリリアーヌも拒まなかった。セーラを伴って、堂々と本館に帰還した。
使用人たちは、皆笑顔を浮かべてリリアーヌを歓迎した。
リリアーヌは真っすぐに父親に会いに行った。
寝室の扉を開けてリリアーヌは、そこで立ち止まってしまった。
父親はすっかりやせ衰え、まるで老人のようだったのだ。
「リリアーヌ、おいで。心配しなくても良い。私は大丈夫だから。それよりリリアーヌ。私の娘は、私に黙って結婚してしまったのだね」
声はすっかりしゃがれていたが、その言葉は懐かしいお父様のものだった。
リリアーヌは駆け込むと父親を抱きしめた。
「申し訳ありません。婚姻の申し出を勝手に受けてしまいました」
リリアーヌはそう言うと、黙って父親の顔を見た。
貴族の婚姻は、家と家との契約でもある。だから婚姻を決めるのは家長の役割なのだ。
父は寝たきりで苦しんでいるのに、娘が父親にも相談せず勝手に結婚した。なんという親不孝な娘だろう。
ローゼンベルク侯爵は、にっこりと笑った。
「何を言うんだい。素晴らしい夫君じゃないか。ニルヴァ殿。どうか、この不甲斐ない父に代わってリリアーヌを、幸せにしてやって下さい」
リリアーヌは驚いて後ろを振り返った。そこには懐かしいニルヴァの姿があった。
「ニル。帰って来たのね」
「ああ、これは理に背く行為だ。人が気象を金で売買するなど、許せはしない。しかも私の名を使って、生贄まで捧げ始めていたよ」
リリアーヌは前世の記憶があったから、驚きはしなかったが、ローゼンベルク侯爵は驚愕と怒りで倒れてしまった。
「お父様、しっかりしてください。お父様!」
リリアーヌが叫ぶと、ニルヴァが治癒の魔法でローゼンベルク侯爵を覆ってしまった。大きな青い繭の中にローゼンベルク侯爵は取り込まれてしまった。
その繭は館内に漂いながら、時々青い光を放っていた。
「ニルヴァ、ありがとう。お父様は大丈夫かしら?」
「長い間、精神支配を受けていながらも、自我を保った男だ。かなり衰弱がひどかったから、あと1日遅ければ命は無かっただろうが、俺が治癒するのだ。大丈夫に決まっているさ」
リリアーヌはふうーと息を吐いた。固まっていた背中が、ほどけるように力が抜けていく。そのまま、ふらりと倒れたので、ニルヴァがすっと抱き上げた。
「無理もない。随分辛い思いをしたんだ。父親が助かると知って安心したのだろう」
「リリアーヌ様のお部屋はこちらにご用意しております」
アルバートが、神龍の行く手を遮った。
ニルヴァが睨んでも一歩も引かない。やがてニルヴァが「案内しろ」と言った。
アルバートが、恭しく礼をして、リリアーヌを部屋に案内した。
ニルヴァはそっとリリアーヌを寝台に横たえるとぼやいた。
「何なんだ。セーラといい、アルバートといい、あいつらはどうしてあんなに忠実なのだ。面倒な奴らだ」
そう言いながら、ニルヴァは機嫌よく笑っている。己の番が大切にされて嫌な訳は無かった。
ただ忠誠心が強すぎて、ちょっとばかりうんざりしただけだ。
「リリアーヌ。俺も随分頑張って情報を集めたんだぜ。起きたらご褒美が欲しいんだ」
そう言ってリリアーヌの髪を撫でていたが、リリアーヌがぐっすり眠っているので、諦めて自分も寝台に入って、リリアーヌと一緒に眠ってしまった。
「どうしましょうかねぇ」アルバートがぼやいている。
「どうなさったのですか?」セーラが尋ねた。
「ヴァレンティア公爵から鳥が届いたのです。どうやら今夜遅くに、こちらに到着するようなのです」
「ローゼンベルク侯爵が繭の中にいて、リリアーヌ姫が神龍と一緒に寝台で寝ている状況で、ですか?それはかなりまずくありませんか?」
「まずいですよねぇ。どう考えても。ヴァレンティア公爵の異名を知っていますか?」
「いいえ、存じ上げませんが」少し小首を傾げてセーラは不思議そうに答えた。
「そうですか。お若い方はご存じないでしょうねぇ。ヴァレンティア公爵は紅蓮公と呼ばれておりましてねぇ。かなり面倒なお方なのですよ。特に身内に関してはねぇ」
そう言うとアルバートは、やれやれと言わんばかりに首を振った。
「いずれにしても、面会は明日と言い張るしかありませんねぇ。聞き入れて下さるとは思えませんが」
聞き入れてくれなければどうなるのだろう?紅蓮公が、繭に包まれた娘婿と、龍と添い寝している孫娘を見つけたとしたら?
セーラは紅蓮公がこの館にきたら、すぐにでもリリアーヌを起こし、神龍を寝台から追い出すと決めた。
前回龍に、自分の前に姿を現すなと言われたが、それを気にしていたら、きっと更に面倒なことになりそうだと、セーラは思った。
そして一陣の嵐のようにそれはやって来た。懸念していたヴァレンティア公爵が、僅かの供廻りだけを従えてやって来たのだ。
「開門、開門」と大声がして、アルバートが急いで門に走り出す。
丁寧に挨拶をすることで、何とか門でヴァレンティア公爵を引き留めた。
既にローゼンベルク侯爵の入った繭は、なんとか頑張って寝台に押し込み、上から布団を掛け、寝台のカーテンを閉め切っている。
回復にどれくらい時間が掛かるか分からないけれど、少なくとも今夜、ヴァレンティア公爵が、娘婿を思い出すことは無いだろう。
セーラは、素晴らしい速さで走って、リリアーヌを起こし、肩からガウンをかけると、ニルヴァも不機嫌そうに、けれど一瞬で身繕いを終えてしまった。
セーラが寝台に目をやったときには、ニルヴァは影も形もなかったから、どうやら神龍も、番の祖父と事を荒立てる気はないらしい。
すぐに、リリアーヌの寝室の扉が、バタンと大きな音がして開いた。
筋骨たくましい、如何にも武人でございという格好をした男が、「リリアーヌ!」と叫ぶなり、ぎゅっと孫娘を抱きしめる。
「ヴァレンティア公爵閣下、そのままではリリアーヌ姫が窒息してしまわれます」
平静にそう声を掛けたのは、執事のアルバートだ。
それを聞いてヴァレンティア公爵は、リリアーヌの拘束を解き、オロオロと慌てだした。
「リリアーヌ。愛しい孫娘。おじいちゃまだよ。おじいちゃまが来たからには、誰にもリリアーヌを虐めさせたりはしないからな」
大声でそんな事を言い立てるので、現場にいた人々は唖然としてしまう。
一番先に正気を取り戻したのはリリアーヌだった。
「お祖父様ですか?」
「そうだともリリアーヌ。連絡を貰ってすぐに飛び出したんだ。待たせてしまってごめんよ」
「お祖父様、いくら何でも早すぎませんか?馬でも10日はかかる距離ですよ」
「おじいちゃまを侮らないでおくれ、リリアーヌ。辻ごとに替え馬を用意して、不眠不休で走れば、ここまでは3日で着くよ」
「お祖父さま、もしかしてお祖父様は私を嫌ってはいらっしゃらないのですか?」
今までいくら手紙を出しても返事が無かったのに、いきなりやって来たかと思えば、まさかのおじいちゃま発言。
面食らっても当然だろう。
「嫌うだって?私が可愛い孫娘を嫌っているなんて、誰が言ったのだね。あの性悪の子爵家の女が言ったのか?」
紅蓮公が憤怒の顔を一瞬だけ見せたが、目の前にいるのが愛しい孫娘だと思い出したのだろう。
すぐに好々爺の顔を取り戻して、リリアーヌを甘やかそうとする。
「ヴァレンティア公爵閣下。今夜は遅うございます。ひとまずは客室でお休みください。供の方もお疲れでしょうし、リリアーヌ姫もお眠りにならなくては」
そのアルバートの、話はせめて朝になってからにして欲しいとの想いは、主であるリリアーヌの言葉によって遮られてしまった。
「お祖父様に見て頂きたいものがあるの。アルバート。夜中に悪いけれど、別館の書庫に明かりを入れてくれる?」
「畏まりました姫」アルバートが下がっていく。
外は真っ暗闇で、今夜は月も出ていない。
ヴァレンティア公爵がローゼンベルク侯爵邸に辿りついたのは、本当に真夜中なのだ。
それでも朝まで待てないというリリアーヌの心を汲んで、アルバートは書庫を明るく照らすことにした。
「リリアーヌ。重要な話があると伝言を寄越したが、それと関連があるのだな?」
「はい、お祖父様。真夜中なのは分かっています。けれど申し訳ありませんが、どうしても検分していただきたいものがあるのです」
リリアーヌは必死だった。
お祖父様に証拠を見せようと頑張って来たのだ。リリアーヌは母の仇をどうしても討ちたかった。
「分かった。だがリリアーヌ。夜も遅い。温かい格好をしなさい」
ヴァレンティア公爵は優しくリリアーヌを諭した。
セーラが寝間着の上から、温かなマントを羽織らせて、リリアーヌに付き従った。
それをちらりと見てヴァレンティア公爵は、何も言わずに孫娘と歩きだした。
「ちぇ、何がおじいちゃまだよ」
神龍ニルヴァは、隠れる事を止めてしまったらしい。そんな嫌味を小さく呟いた。
その声は一行の後を追うように聞こえたが、ヴァレンティア公爵は振り向こうともしなかった。
そして声の主も返事を期待していなかったのだろう。一行の後ろを黙って歩いていく。
魔力の色を見ることが出来る者がいるとしたら、今夜のローゼンベルク侯爵邸には、巨大な赤い焔と、清廉な青い焔が見えたに違いなかった。
この夜、蒼天の王ニルヴァと紅蓮公ヴァレンティア公爵が出会ったのだ。
共にたった一人の少女を守るために




