秘密の鍵
翌朝。リリアーヌはやっとの思いで枕から頭をあげたが、その瞬間「おはよう。奥様。今日もなんて素敵なんだ」という声が降って来たから、リリアーヌは布団をぐっと握りしめて警戒した。
一方のニルヴァは、満腹した猫みたいな顔で、ご機嫌にリリアーヌを眺めている。
ご機嫌なはずだ。リリアーヌは昨夜、とうとう少しも眠らせて貰えず、明け方気を失うように眠りについたのだから。
「リリー、お腹が空いたでしょう。ご飯を食べる?それとももう少し眠る?」
「ご飯にするわ」
リリアーヌは唸るように返事をした。
すっかり声が枯れてしまったのだ。この龍のせいで。
本当は眠っていたかったけれど、そんな事をしたら、きっとずっと寝台から降りる事は出来なくなる。
その恐ろしくも正確な予想に身震いをして、リリアーヌは身を起こした。
ニルヴァは少し残念そうだったけれど、素直に部屋を出る。
入れ替わるように入って来たセーラは、思わず叫んだ。
「何という事でしょう。あの龍は姫様を抱きつぶしたのですね」
洗浄と回復の魔法をかけて貰ってはいたのだが、リリアーヌの身体中に散った、龍の執着の印は、まるで花吹雪が全身に散らばったようなありさまだった。
きっとあの龍は、己の付けた印だけは消さなかったに違いなかった。
「大丈夫よ。身体は回復魔法のおかげで辛くはないの。少し眠いだけよ」
そう言われてセーラは、少しお休みくださいと言いかけて黙った。それは龍の鼻先に餌をぶら下げるようなものだったから。
てきぱきとセーラはリリアーヌの身支度を終えた。そしてすぐに身を顰めた。
それを待っていたようにニルヴァがリリアーヌを抱き上げて、食卓の椅子まで運んでいった。
どうやら無理をさせた自覚はあるようだ。
甲斐甲斐しく世話をやくニルヴァは、誠に麗しく、夫の鏡のようだった。
「ニル。貴方も食べてね。食べ終わったら先に私達を送って頂戴」
リリアーヌは、かつてない程お腹が減っていたから、せっせと食べながらそう言った。
「何を言っているの。ここはもうあのぼろ屋の中だよ。 ぼろ屋に拡張魔法を使って、そこにこの庵を置いたのだ。 他人から見えるのはぼろ屋だけれど、リリーとセーラはこの庵に入れるよ」
カチャンと大きな音をたててカトラリーがリリアーヌの手から滑り落ち、皿に当たって跳ねた。
ぎぎと音がするように首を傾げてニルヴァを見る。
ニルヴァはケロリとした顔で言った。
「だって仕方がないじゃないか。リリーはどうしてもあのぼろ屋に帰りたいと言うし、僕は自分の奥さんを、あんなぼろ屋に住まわせる訳にはいかなかったのだから」
そして玄関の方を指さした。
「あの玄関の先が、ぼろ屋の君の部屋と繋げてある。けれど安心して。リリーとセーラにしか、この庵の扉は見えないし、もしも見えるぐらいの魔法士でも入ることは出来ないから」
「ありがとう??」
「リリー。俺は別にお礼を言われたい訳じゃないけれど、そこでどうして疑問符がつくのかわからないよ」
「そうよね。それはそうだわ。ニルの言う通りよ。私もどうしてか分からないもの」
リリアーヌがそう言ったから、今度は二人そろって首を傾げる羽目になった。
「多分、あなたの愛情があまりにも大きくてびっくりしたのよ。そうよ。きっとそうだわ」
「リリー。そんなに驚くこと無いのに。ぼろ屋に庵をくっつけただけだよ」
「ええ、そうよね。驚くことは無いわよね。ありがとうニル」
リリアーヌが素直にお礼を言ったので、ニルヴァは自慢そうに胸を張って返事をした。
「どういたしましてリリー。こんなこと位で喜んでくれて俺も嬉しいよ。
俺はもう行くね。この庵の使い方はセーラに教えてあるから、リリーは安心して証拠探しに集中できるよ。 俺は一刻も早く帰りたいから、行くよ」
ニルヴァは素早くリリアーヌにキスをすると、さっさと転移してしまった。
「セーラ」
リリアーヌが呼ぶとセーラはすぐにやって来た。
「一緒に食べましょう。セーラ。二人っきりの時はいつもそうしていたでしょう?」
「姫様。姫様はもう神龍様と結婚されて、この館の女主人の座に就かれたのです。今まで通りという訳には参りません」
「セーラ。公式の場なら、私もわきまえるわ。でも今は乳姉妹のままでいたいの。こんな機会はきっともう無くなるから」
するとセーラの目にはみるみる涙がたまった。
「はい。姫様。そうですね。きっとこれが最後の機会です。どうぞ存分に甘えて下さいませ」
そう言うとセーラの隣に座り、自分も食事を始めた。
けれども常にセーラの様子を見ていて、セーラが必要な時は素早く手助けしている。
それがいつものリリアーヌとセーラのありようだったのだ。
「それでセーラ。この庵の使い方をニルヴァから聞いたの?」
「はい。聞いたというより、刻み込まれたという方が正確かもしれません。 いきなりこの庵の使い方が分かってしまったのです。 丁度、魔法士になったときに魔法の使い方が分かった時みたいに」
「わかったわ。ニルヴァについては、もう何も驚かないことにするわ。規格外すぎるもの」
そう言ってリリアーヌは深いため息をついた。
そう言えば夜も、きっとあれは規格外に違いないわ。
リリアーヌはニルヴァしか知らないが、あれが普通の訳は無いと確信している。
リリアーヌは昨夜の事を思い出して、顔を赤らめた。
セーラはリリアーヌが何を思い出したか、すぐに察したが知らん顔を貫いた。セーラは出来る侍女だったのだから。
食事が終わるころ、セーラは珈琲を入れた。
長いあばら家生活で、リリアーヌが珈琲を飲むことはなかったが、きっと気に入ると思ったのだ。
リリアーヌは珈琲の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
これはお父様の香りだ。
ローゼンベルク侯爵は食後の珈琲を好んだ。
リリアーヌが幼い時、珈琲をねだったが、お父様は『大きく成ったらね』と笑ったのだ。
「セーラ、間に合うかしら。お父様を助けられると思う?」
それは辛い質問だった。
ローゼンベルク侯爵が寝室に幽閉されてから、既に17年がたつ。
14 年も寝たきりなら、健康な人でも起き上がれないだろう。 そのうえ、きっと薬で思考を混濁させられている。
生きてはいるだろう。
この国は女に爵位を相続する権利を認めていないから。
お父様が死んだら、相続するのは遠い親戚になるだろうから。
だから生かしてはいる。
でもきっと、それは死よりも辛い状態だろう、としか思えなかった。
珈琲の香り。穏やかなお父様の顔。
笑顔のお母様。そして少女だったリリアーヌ。
そのささやかな一家団欒は、ガラス細工のように粉々に壊れて。もう元には戻らないのだ。
珈琲を飲み終わると、二人は玄関の扉をくぐった。 その先は、確かにあのぼろ屋のリリアーヌの寝室だった。
振り返ると扉が見える。
この扉はリリアーヌとセーラにしか見えないらしい。
確かめようも無いことだけれど、神龍が言うのだから本当なのだろう。
セーラは居間と寝室、台所などを調べると言った。
だからリリアーヌは、大きな書庫に入った。
誰も見ていないから。魔法は使い放題だ。
ライトの魔法で家を煌々と照らし、洗浄の魔法ですべての埃や汚れを落とす。
そうしてみると、なかなか立派な書庫だった。 天井までは吹き抜けで、天井には大きな天窓があった。
リリアーヌは浮揚の魔法で、天窓まで昇っていった。 何か見えた訳ではないが、なんだか少し気になったのだ。
天窓のガラス扉に、小さな鍵穴が2つあった。 天窓を覗き込むと、奥に何か入っているようだった。
ドクンとリリアーヌの胸が、大きな鼓動を響かせた。
見つけた!きっと此処が、秘密の隠し場所だ。
開錠の魔法をかけても開かない。 どうやら、正しい鍵を差し込まないかぎり開かないらしい。
特殊な鍵が使われていて、魔法を排除している。 つまり物理でしか開かないのだ。
鍵を探さなければならない。 でも一体どうやって?
この広大な館から、小さな鍵を見つけ出す。それこそ藁から針を見つけ出すくらい大変な事だ。
どこかに鍵のありかを示した地図があるはず。その地図は何所にあるだろう?
大事な鍵なら手元に置く筈。お父様の寝室とお母様の寝室。
そこが怪しい。
寝室に入るのは、限られた人だけ。 執務室や居間に置くより、ずっと安全な筈だ。
リリアーヌは、探し物をしてくれている、セーラの所に行った。
「姫様、何か見つかったのですか?」
本当に聡い子だとリリアーヌは思った。
セーラはリリアーヌが、簡単に探し物を諦めることは無いと知っている。 だから用があると思ったのだ。
「セーラ。庵に戻りましょう。わかった事があるの」
そうして二人はリリアーヌの寝室の扉から、神龍の庵に戻った。
セーラは小さなケーキを美しく並べるとリリアーヌの前に置いた。
そして香り高い紅茶を入れる。
キュウリを挟んだ小さなサンドイッチとスコーン。
クロテッドクリームに色とりどりのジャム。
二人だけのお茶会だ。
「姫様、何を見つけたのですか?」
「天窓に何か隠されているの。でも小さな鍵穴が2つあった」
「では鍵を探さないといけないのですね」
「そうなの。でもやみくもに探しても見つからないわ。 きっと鍵の隠し場所を示した暗号か、地図があると思うの」
「暗号か地図。どちらにしろ見つけるのは簡単ではなさそうですが」
「そうね。でも私はお父様かお母様の寝室が怪しいと思うわ」
「侯爵様の寝室は、とても警備が厳しくて入ることは出来ません。 亡くなった侯爵夫人のお部屋は、亡くなった時のまま保存されています」
「そうなのよね。お父様がそれだけは厳命していたから、さすがの義母も手が出せないみたい。だとしたら、きっと鍵がそこにあるか、少なくともヒントがあるはず」
「鍵のような目立つものを寝室に隠さないのではないでしょうか?聡明な方でしたから」
セーラが懐かしそうにそう言った。
「私も、そう思うわ。だからきっと暗号の筈。でも今はお母様の部屋には入れないのよね」
「本館に入る事は出来ませんからね。でも私なら侍女ですから入ることが出来る筈ですわ」
「セーラ。結界石で閉じ込められているし、第一あなたはとっくに逃げたと思われているでしょう?返って私より目立つわよ。 どちらにしても、エリーゼ達は王都に行くから、その後探せばいいわ」
「でも、もったいないですね。まだ8日も閉じ込められているのですから」
「そうね。それならのんびり書庫を探してみない? 案外、鍵も書庫に隠しているかもしれないわよ」
そうする他はなさそうだった。
結界石で幽閉されているから、神龍でもない限りここから出入りは出来ないのだ。
「でも、良かったです。姫さまお一人でこんなところに幽閉するなんて酷いとおもったけれど、神龍様のおかげで食べ物にも困らないし。ずっと姫様にお仕えできるのですから」
セーラが可愛いことを言うので、リリアーヌも頷いた。
本当にそうだ。
前世、薄闇の中でたった一人、食べ物すら無かった事を考えると、まるで嘘みたいに幸せだった。
リリアーヌは何も言わずに、そっとセーラに寄り掛かった。
セーラは少し笑ってリリアーヌを支えるのだった。




