策士リリアーヌ
リリアーヌが目を覚ました時、最初に嗅いだのは清涼な香りだった。
まるで奥深い山懐から湧き出る泉のような香り。
それは間違いなく自分の半身、番の香りだったから、リリアーヌの目元は優しく瞬いた。
そして自分に寄り添う男にそっと頭を擦りつけた。
まるで幼子が甘えるような仕草だったが、ニルヴァは黙ってリリアーヌを抱きしめて、つむじにキスを落として言った。
「おはよう。リリー。身体はすっかり良くなったようだね。
もうお腹が空いたのではないか?食事にしよう。
本当は君を食べてしまいたいけれど、奥様を空腹にしておくわけにはいかないからね」
少し低いその声は、リリアーヌの耳朶に甘い響きを与えたから、リリアーヌの顔は美しく赤みを帯びてしまう。
「ニル、揶揄わないで。でも確かにお腹が空いたわ。今なら何でも食べてしまいそうよ」
寝室の窓は開けられない。外は湖の底なのだから。
それでも太陽の光を浴びて水がきらきらと光っていたから、きっともう翌朝なのだろう。
リリアーヌが起き上がると、ニルヴァはそっと部屋の外に出る。
今までは魔法で着替えさせていたのに?
リリアーヌの疑問はすぐに解消された。
カチリと小さな音をたてて扉が開くと、セーラが入って来たのだ。
「姫様。着替えのお手伝いをいたします」
その途端リリアーヌはセーラに抱きついた。
きっとエリーゼに惨い目に遭わされていると思っていたが、見るからに健康そうだった。
「良かったわ。無事だったのね」
「はい、主様が潰れた顔を修復してくださいました。
おかげさまでこうして姫様の侍女も続けられます」
「待って!どういうこと?一体何をされたの?」
リリアーヌはセーラの話を聞き終えると怒りに震えた。
女の顔を砕くなんて、なんて卑劣なのだろう。
怒りのあまりリリアーヌはぶるぶると身体を震わせている。
そこにセーラがそっと手を伸ばした。
「姫様。私はこうやって主様に助けていただけました。
しかもこの龍の巣穴にまでお連れ頂いたのです。
それもこれも全て姫様を愛するが故です。
姫様は素敵な旦那様を選ばれましたね」
そういうセーラの顔は慈しみに溢れていた。
「本当にニルは、あなたをこの庵に招いたのね。
信じられないわ。龍が他人を懐に入れるなんて!」
リリアーヌが、驚いたり喜んだりしている間も、セーラはリリアーヌを着替えさせ、髪を編み、化粧を施していた。
「さあ、姫様。旦那様が扉の外でお待ちですよ」
セーラに促されてリリアーヌが扉に手を掛けると素早くニルヴァがエスコートし始めた。
セーラは決して龍の視界に入らないように慎重に行動している。
龍の魔法があれば、侍女が居なくても問題はない。
しかしひとたびセーラを侍女として受け入れると、ニルヴァは侍女の領分を侵そうとはしなかった。
それはきっと王家の血を引く姫の面目を保つためだろう。
姫には専任侍女が必要だから。
本当ならひとりでは足りないのだが、あの龍がたった一人でも侍女をつけただけで上出来であった。
テーブルには様々な種類のジュース、スープ、サラダ、パン、ジャム、チーズが並んでいて、どれを選んでも良かった。
珈琲も紅茶も用意されていて、メインにオムレツ、グリルベーコン、ソーセージが並んでいた。
リリアーヌがグレープフルーツジュースに目を止めると、素早くニルヴァがグラスに注ぎ、リリアーヌの口元に持ってきた。
リリアーヌはそっとニルヴァの手に触れて、微かに首を振る。
自分で食べる。
その意思表示にニルヴァは素直に頷き、自分もカトラリーを手にした。そして生まれついての貴族のように食事を始めた。
リリアーヌは、そんなニルヴァを愛おしそうに見つめて考えた。
何と器用な龍だろう。そのマナーは王侯貴族と変わらない。
「ニル。セーラを助けてくれただけでなく、この庵に招いてくれてありがとう。大丈夫なの?貴方はあんなに他人がいる事を嫌がっていたのに」
「うん。まあね。まあ。そうだな。そういうことになったんだ」
ニルヴァの返事は、あいまいでよく分からないものだった。
なるほど、とリリアーヌは納得した。
どうやらこの龍は、セーラに言質を取られてしまったらしい。
賢者にしてやられて、目覚めたばかりだと言うのに、もうセーラに言質を取られる。
セーラがいてくれるのは嬉しいが、この龍はかなり危なっかしい。
この龍を教育しなければならないと、リリアーヌは、やる事リストに、大きく付け加えた。
社交界の会話術などは、とてもこの龍には覚束ないだろう。
けれどせめて言葉にする前に一拍、考える時間を作る事だけは、どうあってもこの龍に教え込む必要があった。
うっかりするとこの龍は、番がいると言うのに、誰かに縛られて身動きできなくなりそうなのだ。
リリアーヌがニルヴァの教育方法を考えていた時、どうやら不穏な空気を察したらしい龍が、話題を変えようと話し始めた。
「それで、リリー。これからどうするつもりなのだ?」
「この幽閉は、私を王都に行かせないための策略なの。
回帰前の私は、薄暗闇の中で、いつ終わるかも知れない幽閉と空腹で精神を病んでしまったの。
それを確認してから義母と義妹は、ほとんどの使用人を引き連れて王都の館に向かったわ」
「王都では、何があるのだ?
何のためにローゼンベルク侯爵家がこぞって王都に行ったのだ?」
「三ヶ月後に王子妃候補選定の茶会が開かれる。
王家からの招待状も、そろそろくるはずよ」
「そしてその噂を聞きつけたから、私は幽閉された。
私は王家の血筋だし長女よ。
本来ならローゼンベルク侯爵家は、私を王子妃候補にするべきだから」
「なるほど。それでお前を幽閉した。
精神に問題のある娘を候補に立てる事は出来ない。
名目を作った訳だ」
「ええ、そうよ。
そしてエリーゼは、そのチャンスをつかみ取った。
王子はエリーゼに夢中になったから」
「だからね。ニル。
私は、その茶会で義母と義妹を抹殺するつもりなのよ。
でもそうするとローゼンベルク侯爵家も、とり潰しになる。
だからその前に私の戸籍をヴァレンティア公爵家に移したいの」
「祖父の養女になると言うのか?
ローゼンベルク侯爵家を取り潰しにするような事件を、どうやって起こそうと言うのだ」
「私ならやれるわ。でもそのためには人員とコネとお金が必要なの。
今の私には何もない。
お母様が亡くなってからは、ヴァレンティア公爵家との繋がりは途絶えてしまった。
けれどもお祖父様はお母様を愛していらしたわ」
「ヴァレンティア公爵家は、お前を守ろうとはしないのか?」
痛ましげにニルヴァが聞いた。
リリアーヌは少しばかり目を揺るがせたが、諦めたように言った。
「義母と義妹が悪評を広めたからね。お祖父様もきっと愛想をつかしたのよ。それにローゼンベルク侯爵も、義母を娶ってからは一度もヴァレンティア公爵家を訪問していないの」
自分の父親を、お父様ではなくローゼンベルク侯爵と、まるで他人のように突き放すリリアーヌに、ニルヴァはそっと尋ねた。
「お前と父親は不仲なのか?」
「いいえ、ずっと愛されていたわ。けれどお母様の死後、お父様は狂ったように母の死の真相を突き止めようとしていたの。表向きは病死だったけれど、お父様はそれを認めなかった」
「何か不審な点でもあったのか?」
「お母様が倒れる前、神殿から聖水が届いたの。
丁度お母様はお腹に赤ん坊がいたのよ。
無事に生まれていれば17歳になっていた筈の子供がね」
「安産の守りが込められた水だと言われて、お母様はそれを飲んだ。
そして急激にお産が始まって、そのままお母様も、お腹の中の子も死んだの」
「聖水に何か混入されていたのか?毒が検出された?」
「それなら憲兵が動くでしょう。証拠は何も無かった。
けれど異常だった。
お母様の血は、全然止まらなくて赤ん坊も流れてしまったし、お母様が死ぬまで血が流れ続けたの。
そんな事が普通に起きると思う?」
そこまで一気に言ったリリアーヌはしばらく涙を隠すかのように上を向いたまま動かなかった。
ニルはリリアーヌを慰めたくてそっと手を動かしかけたけれど、リリアーヌの姿があまりに毅然としていたので、触れる事は出来なかった。
「神殿は何と言っている?」
「神殿は、そんなものは送っていないというの。
確かに神殿の紋様が刻まれていたのに。しかもその瓶は消えてしまった」
「それはあやしいんじゃないか。真っ黒だ。
誰かが神殿の名を騙ったか、神殿に犯人が紛れているのだ」
「だからお父様は、犯人を追ったのよ。
けれど証拠は見つからず、一年後に再婚した時には、いつもぼんやりとしていたわ。
エリーゼが生まれた後は、お父様は寝室から一歩も出ていない。
私は顔も声も聞いていないの」
「ローゼンベルク侯爵は既に廃人になってしまったのか?」
ニルヴァは、息を吞んだ。なんと悲惨な運命なのだろう。
「多分ね。お母様は殺され、お父様は廃人になって、このローゼンベルク侯爵家は、今や義母の思いのまま。
だから証拠を探したいの。お母様が殺された確かな証拠。
それさえ示せばヴァレンティア公爵は、必ず動かせる」
ニルヴァは感心したように、この小さな策略家を見つめた。
リリアーヌの中では既に作戦は練りあがっていたのだ。
「だが、リリー。お前の父が1年かかって見つけられなかった証拠を、お前が見つけられるのか?」
「完璧な物証でなくていいの。裁判所に提出するわけでは無いのだから。
ただお祖父様が、お母様の死に疑念を持てるだけの状況証拠。
それを見つければいいの」
「お父様が動いたのだって、疑念があったからよね。
だったらお父様の証拠も残っているはずよ。
それにお母様だって馬鹿ではないわ。
自分が狙われるかも知れないと悟るぐらいはしていたはず。
ならば証拠は、必ず残す」
きっぱりと言い切ったリリアーヌの執念を見て、ニルヴァは、にやりと笑った。
「さすがは俺の番だ。正直に言えば俺は表立って動けない。
人間界の法を守らないといけないからな。
だが、俺に手伝えることがあったら、なんでも言ってくれ」
「ありがとう、ニルヴァ。
それじゃあ早速だけれど、この異常気象の原因を探ってくれるかしら?
私は渇水が原因で、前世で生贄にされたでしょう?
それも計画の一部かも知れないから」
「探る先は、義母の実家ノクス伯爵家と寄り親のアークライト公爵家。
もし時間があればアークライト公爵家に繋がる商人と神殿関係者も調べて欲しい」
次々に仕事を言いつけられてニルヴァは焦った。
ニルヴァとしてはこれから甘い恋人の時間をたっぷりと過ごすつもりだったのだから。
「明日からでもいいか?せめて一夜くらいは、リリーと過ごしたい」
うるうるとした瞳で見つめられてリリアーヌは折れた。
「いいわ。けれど明日は、私とセーラを、あの閉じ込められていた館に戻してもらうわよ。
私がお父様やお母様なら、あそこは絶好の隠し場所だもの。
エリーゼの監視の目がないのだから、徹底的に捜索できるわ」
「ちょっと待って。リリー。
あんなぼろ屋に君を置いていけないよ。
この庵がいやなら、もっとましな家を用意するから」
そう言いかけてニルヴァは黙った。リリアーヌが厳しい目で睨んだからだ。
「ニル」
低い声で脅されてニルヴァは理解した。
番に逆らってはいけないと。
ニルが余計な事を考えなくなったので、リリアーヌはご褒美をあげることにした。
「ニル、抱っこして私を寝室に連れていって」
このご褒美はニルに絶大な成果を発揮したが、反対にリリアーヌは激しく後悔することになる。
あんな事を言わなければよかったと、その夜、何度もリリアーヌは思い知らされたから。




