神龍の庵
ニルヴァがそっと、リリアーヌを食卓にエスコートした。
そこでようやくリリアーヌは、この広大な城に目を向ける余裕が戻ってきた。
リリアーヌが最初に座らされた長椅子は、玄関扉からすぐの広間に置かれていたにすぎなかった。
ニルヴァのエスコートが無かったら、リリアーヌは茫然としてその場に立ちすくんでいたに違いなかった。
幼いころリリアーヌは、何度も王宮を訪ねたことがある。
けれどもこの城は、それよりもよほど豪華だった。
何しろ足もとは薄っすらと碧い光を放つ碧玉が敷き詰められている。
碧玉は、貴重な宝石だ。暗闇でぼんやりと青い光を放つ宝玉には、偽物が入る隙間もなかった。
唯一無二の宝玉。それを、まさかただの床材のように扱うとは!
壁面は白い石、そして天井は吹き抜けで、ガラスから揺れる光が、そこが水中であることを告げている。足もとからぼんやりと光る碧と天窓の揺れる青が幻想的で、白い壁面に暖かな橙色のランプの光が陰影を深めている。
天窓の青も、足元の碧もゆらゆらと揺らめくように光るから、リリアーヌはこの景色に飽きることは無かった。
「ニル。ここは青龍湖の中なのですね」
「ああ。ごめんよ。こんな庵にリリーを連れてきて。
ついこの間までこの庵で眠っていたから、自宅には帰っていないのだ。
保存の魔法は掛けてあるけれど、一度は確認してからでないと、大事な番は連れて行けないからね。許してくれる?」
リリアーヌは、思わずニルヴァを見つめてしまった。
どうやらこの龍は、リリアーヌには城としか見えないこの場所を、本当に粗末な庵だと思っているようだった。
「ニル。私は此処が気に入ったわ。とても落ち着くわね」
その一言でニルヴァは嬉しそうに顔を輝かせている。
リリアーヌは少し頭が痛くなった。
この龍と人間の間には、価値観に大きな隔たりがあるようだ。
リリアーヌに気に入られようと、見えない尻尾をブンブン振っているこの神龍を、リリアーヌはしっかりと制御しなければならない。
リリアーヌはこの時、己の責任の重さを実感した。
龍と言うものは、番を溺愛すると言う。
だがその溺愛が、この世界を破滅に向かわせかねない。
この青龍が神龍と言われるゆえんは、その膨大な魔力にある。
彼がひとたび怒り狂えば、瞬く間に嵐が巻き起こる。
稲妻が地を裂き、膨大な水が大地を呑みこむ。
この国どころか大陸すらも滅ぼしかねないのだ。
ただ幸いなことに、この神龍は単細胞なので、過去に何度も賢者によって封印されて来た。
さっきも300年ほど眠っていたと言っていたが、いい加減学習すればよいものを。
リリアーヌが心中で、自分をそんな風に思っているとも知らないで、ニルヴァは、いそいそとリリアーヌを食卓に案内した。
ずっと冷遇されてきたリリアーヌの胃は、残念ながらこれらの御馳走を受け付けないだろう。
リリアーヌが、スープを選ぶとニルヴァはしばらく瞑目していたが、やがてどこからか、良い香りのする桃を持ってきた。
その桃を丁寧に剥いてその一切れをそっとリリアーヌに差し出した。
リリアーヌは素直にその桃を呑みこんだ。
滑るように桃はリリアーヌの喉を通り甘い香りが口中に広がる。
身体が軽くなって気分がみるみる良くなっていった。
リリアーヌはまたも次を強請った。
ニルヴァは少し苦笑すると、リリアーヌが満足するまで、次々と桃を剥いては、食べさせてやる。
「これは精霊界の桃なんだ。癒しの効果があるけれど、副作用があるんだ。疲れが完全に癒えるまで、強制的に眠らせてしまう」
その言葉をリリアーヌは、夢うつつで聞いていたが、すぐにその意識は落ちてしまった。
ニルヴァはそっとリリアーヌを抱き上げて、ベッドに横たえた。
既にリリアーヌは清潔な寝間着に着替えさせられている。
ニルヴァは立ち去りがたい様子だったが、未練を押し殺して、天蓋を閉めてしまった。
白いレースの天蓋に包まれたベッドの中で、リリアーヌは安らかな眠りに落ちている。
その白を薄く青い光が取り巻いた。ニルヴァが守りを付与したのだ。水中の神龍の庵を襲う者などいるとは思えないのに。
「さて、それではセーラとやらの所に行って守護をかけてやらねばならぬな。
リリーが望むのだから仕方がない。
だがこの神龍の加護をただでやる訳にはいかぬ。
セーラとやら。そなたの忠誠を確かめさせてもらおう」
ニルヴァはそう呟くとセーラの居場所を探った。
セーラは濃厚にリリアーヌの気配を纏っていたから、ニルヴァはすぐにセーラの居所を突き止めることができた
セーラは侍女たちの寝床に寝かされていた。
その側で同輩らしい女がぶつぶつとセーラを叱りつけていた。
「ありえないわ。女の頬骨を砕くなんて!御覧なさい。こんなにも腫れて。
明日はもっとひどくなるわ。顎骨もひびが入っているそうよ。
どうしてそこまでリリアーヌ様をお守りしようとするの!
分かっていたはずよ。
今回は、エリーゼさまは本気だった。
あなたがリリアーヌ様の元を去るまで、惨い目にあうのよ」
セーラは聞こえているのかすら分からなかった。
既に高熱が出て意識が混濁していたからだ。
同輩は痛ましそうにセーラの額と頬に当てたタオルを取り換えると出て行った。
もしもセーラの手当をしているところを見咎められたら、ひどい目に遭わされるだろう。
けれど見捨ててはおけなかったのだ。
カチリと静かにドアを閉める音が聞こえて、その後はシーンとして音と言えば蝋燭が時折ジジと小さな音をたてるだけだった。
粗末な寝台には、顔を破壊された哀れな女がひとり高熱にうなされている。
ニルヴァは静かにその姿を現した。
「なるほど。ここまでされても主を守るのか?
そなたの忠誠は、この神龍の加護を与えるに足るものだ。
女が顔を失うなど、さぞ恐ろしかったであろうに」
そうしてニルヴァはゆっくりと癒しの魔法をかけてやった。
熱は緩やかに下がっていき、砕かれた骨が元へと戻る。
腫れていた頬は美しいラインを見せて静まっていく。
はあはあとした荒い息が、いつの間にかゆっくりとした深い息になっていく。
待つ事も無くセーラはその目を開けた。
セーラは身を起こすとすぐに手鏡で顔を確認した。
そして驚いた。砕けたはずの顔半分が元に戻っていたからだ。
「どうだ。それで問題は無かろう」
セーラは男の声に驚き、そして跳ね起きた。
男は間違いなく高位の者であったからだ。
「申し訳ありません。不敬を致しました」
セーラは跪いた。
その身体は隠しきれぬ恐怖でガタガタと震えていた。
目をつむり死さえも覚悟していたようだ。
セーラはとうとう自分を殺す命令をエリーゼが出したと思ったのだ。
たかが侍女ひとりの為に高位貴族がやって来た。
きっと自分は慰み者になって殺される。
そう覚悟したのだ。
「俺は蒼天の王、神龍ニルヴァ。そなたの主リリアーヌの番でもある」
セーラは許可もないのに高位貴族に話しかけた。
とんでもない不敬だが、セーラはそんな事に構っていられなかった。
「リリアーヌ様は、姫様はご無事なのでしょうか」
取りすがるようなその声は、静かな部屋に悲鳴のように響いた。
「愚かな娘よ。俺は自分の番さえ守れぬと言うのか」
その厳しい言葉に反してニルヴァの機嫌は悪くは無かった。
この娘は、真っ先に我が番の安否を尋ねたのだから。
セーラは額ずいた。
そしてそのまま罰を受けるのを覚悟した。
果たしてそれはすぐに訪れた。
凄まじい魔力が情け容赦なくセーラの体内に入り込んだ。
そしてその魔力は乱暴にセーラの身体を作り変えていく。
魔力を持たぬ者から魔法士へと急激に変化させたから、セーラは凄まじい苦痛を味わっていた。
ニルヴァは約束通り、セーラが十分に自分の身を守れるだけの力を与えたが、優しくしてやるつもりは毛頭なかったし、その必要性を感じなかった。
ニルヴァは、ただ愛するリリアーヌの願いを叶えただけの事だったから。
しかし驚くことに、通常ならば寝込むはずの変化にも関わらず、セーラは苦しみを欠片も見せずにほほ笑んだ。
「ありがとうございます神龍さま。これで私はリリアーヌ姫をお守りできます」
まっすぐな言葉。
あえて苦痛を伴う方法を選んだと言うのに、セーラの喜びは自分が魔法士になったことではなく、ただリリアーヌを守る事のみに注がれていた。
だからニルヴァは、つい言ってしまった。
「何を馬鹿げたことを言うのだ。リリアーヌを守るのは、この俺の役目だ。お前などは、ただ侍女としてリリアーヌの世話でもしていれば良いのだ」
セーラの頬は一瞬で朱に染まった。
「それでは、私はリリアーヌ様のお傍でお仕えすることが出来るのですね。ありがとうございます。私のお役目、精一杯務めさせて頂きます」
セーラは喜びのあまり、踊るように立ち上がり、美しい礼をして、自分が今まさに主となった神龍によって、侍女の役割を与えられたことを示して見せた。
ニルヴァは唖然としてしまった。
これは300年前に賢者に嵌められた時と全く同じ流れだ。
神龍の言葉は誓言となって、取り消すことはできない。
この娘は、神龍の言葉を戯言として流さず、しっかりと捕まえて侍女として遇するように宣言してしまった。
この娘は神龍ニルヴァの番の侍女だ。
ニルヴァがそう言ったのだから。
ニルヴァは苦虫をかみつぶしたような顔になった。
ここ500年ばかり、ニルヴァにこんな顔をさせたものは、いなかった。
賢者に嵌められて眠りについた時でさえ、ニルヴァは笑ってそれを受け入れたのだから。
龍の巣穴は聖域だ。
龍は神経質で巣穴に他人が入り込むことを許さない。
龍の巣穴は龍とその番だけのものなのだ。
我が子ならば仕方がない。
成人までは守ってやるが、余人が入るなんてとんでも無いことだ。
ニルヴァは純粋な喜びと、そして神龍の言質をかすめ取った、ずるがしこさを持った娘をしげしげと見つめた。
一体どうしてこんなちっぽけな小娘に、言質を取られることになったのだろう?
「娘。そなたは龍の巣穴は、龍とその番しか入れぬと聞いたことはないのか?」
「はい、知っております。あまりにも有名なお話でございますから」
セーラは己の主に敬意を持って答えた。
「ではどうやってリリアーヌの世話をすると言うのだ。
龍の巣穴には龍とその番しか入れぬと言うのに」
「私はリリアーヌ様の侍女でございます。
そうであるならば、どこであろうと私はリリアーヌ様にお仕えするまででございます」
ニルヴァの苦虫は、更に苦みを増したようだ。
「よかろう。そなたを連れ帰ってやろう。
だが俺がリリアーヌと一緒にいる時には、間違っても近付くではないぞ。
常に隅に引っ込んでおれ。
そなたの部屋は用意してやる。
そなたがリリアーヌの世話をするのは、俺がリリアーヌから離れている間だけだ。
俺は絶対にお前の顔なんか二度と見たくは無いのだ」
セーラは又も最敬礼で、その指示を守る事を誓った。
この龍は、案外甘いところがある。
見たくはないと希望を述べたが、見せるなとは言わなかった。
それが小さな許しのようで、セーラの胸はほんのりと温かくなった。
この主様と結婚なさったら、きっとリリアーヌ様はお幸せになる。
乳姉妹として、ずっとリリアーヌを守ってきたセーラは、ゆっくりと身体の力を抜いた。もう一人であの高貴な姫様を守らなくていいのだ。
ローゼンベルク侯爵家では、セーラはリリアーヌをお嬢様と呼んでいた。
王家の血を引く姫なのに。
姫様と呼べばきっとセーラは解雇されていたから。
けれどリリアーヌ様はきっとこれから本来の身分を取り返すはずだ。
だからセーラは姫様とお呼びする。
胸をはって堂々と。




