第八話 泥と鍛錬と小さな脅威
雨が上がり、湿った泥の匂いが漂う森の中。僕はひとり、途方に暮れていた。
教団兵から逃げ延びたものの、僕の身体は限界を告げていた。
『変形修復』による血弾。あれは自分の体を傷つけ、大量の血を失う諸刃の剣だ。傷自体はスキルによって瞬時に塞がるものの、失われた血液が再生産されるまでの激しい貧血と、全身の血管が焼けるような灼熱の痛みは容赦なく僕を苛む。
(このままじゃダメだ……)
僕は地面に座り込み、自分の左手を見つめた。
魔法も使えない、剣技もない。一般的なスキルすら持たない僕が生き残るには、この呪いのようなユニークスキル『我が至高なる存在』を泥臭く使いこなすしかない。
爪を立て、左手の平を深く引き裂く。
「つっ……ぁ!」
激痛が走り、赤黒い血が溢れ出す。
僕は歯を食いしばりながら、その血の「戻ろうとする力」に意識を集中させた。引き寄せのエネルギーを体内で逆位相に捻じ曲げ、圧力の弁を強引に閉ざす。
パンッ!
小さな破裂音とともに、放たれた血の塊が近くの樹木に突き刺さり、幹を大きく削り取った。
「はぁ、はぁ……っ!」
激しい目眩が襲い、視界がぐらりと揺れる。
痛い。何度やっても、自分の血を弾丸に変える感覚は慣れるものではない。だが、何度も血を放ち、肉体を苛む練習を繰り返すうちに、少しずつだが制御のコツが見え始めていた。
どれだけの圧力をかければ効率よく飛ぶのか。
どのタイミングで血の凝固を高めれば、威力を殺さずに済むのか。
全身を灼く痛みに耐えながら、僕はひたすらに自傷と修復の感覚を叩き込んでいった。
その時だった。
ガサリ、と茂みが揺れる。
「ギギッ……! グギャ!」
現れたのは、青緑色の皮膚を持った小柄な異形——ゴブリンだった。
不揃いな牙を剥き出しにし、手に持った錆びたナイフをこちらに向けて殺気を放っている。体格は子どもほどだが、その瞳には純粋な凶暴性が宿っていた。
かつての僕なら、この程度の怪物にすら恐怖で動けなくなっていただろう。
だが、今の僕には『変形修復』の感覚がある。
「ギギャッ!」
ゴブリンが泥を蹴り、地を這うような動きで飛びかかってきた。
短刀が僕の太ももを深く突き刺す。
「ぐっ……!」
肉が裂ける激痛。だが、僕は叫びを噛み殺し、直後にゴブリンの腕を強く掴んだ。
逃がさない。
僕はあらかじめ引き裂いておいた右手から、溜め込んでいた血の圧力を一気に解放した。
ドパンッ!!
至近距離で放たれた血弾が、ゴブリンの胸腔を正確に撃ち抜いた。
大量の緑色の血を撒き散らし、ゴブリンは甲高い悲鳴を上げてその場に倒れ込み、ピクピクと身体を痙攣させて動きを止めた。
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
太ももの傷口から、強烈な引き寄せのエネルギーが働く。
刺された肉と皮膚が強引に縫い合わされ、数秒後には傷一つない状態へと戻っていた。
倒れたゴブリンを見下ろす。
一般兵や強い魔物には遠く及ばない。けれど、この程度の雑魚であれば、今の僕でも自傷の痛みに耐えることで倒せるようになっていた。
「少しは……マシになったのかな」
自嘲気味に呟く。
ほんの少し強くなったところで、あの大罪者たちや教団の精鋭には到底叶わないというのに。
血の臭いが漂う森の中で、僕は濡れた衣類を絞り、再び歩き出した。
生き残るための、あまりにも不格好で痛々しい試行錯誤は、まだ始まったばかりだった。




