第六十七話 ツギハギの街景
——ゴォ……と、風とも叫びともつかぬ異様な鳴動が、空間の歪みから吹き抜けてくる。
『世界の裏層』へ足を踏み入れた瞬間に視界を襲ったのは、狂気そのものの光景だった。
頭上に広がるのは、星も月もないドス黒い虚無。
その下に佇むのは、ルシアンの前世の記憶にある高層ビルの残骸と、異世界の血肉で脈打つ巨大な樹木が不気味に融合した領域だった。
アスファルトの亀裂からは黒い粘液がにじみ出し、コンクリートの壁面には教団の無数の被検体たちの顔が浮き彫りのように固着し、絶え間なく無声の悲鳴を上げている。
「ここは……」
ルシアンは息を呑み、足元の感覚に目を落とした。
履いている靴底が触れているのは、冷たいアスファルト——だが、その下でドクンと確かに心臓のような鼓動が跳ね返ってくる。
「前世の街並みと、この世界の地獄……。あいつは、僕の頭の中にある『故郷』すら切り取り、実験室の背景にして遊んでいたというわけか」
激しい怒りが胸を突き上げるのと同時に、脳裏に強烈なノイズが走った。
――ズキリッ、と脳髄を直撃する閃光。
(……おい、ルシアン。今日はどこへ遊びに行く?)
眩しい日光。コンクリートの照り返し。
信号機の電子音と、車の走行音が混ざり合う、前世の何気ない放課後の風景。
友人の笑い声、温かい家庭、温もりを持った自分自身の両手。
(ずっと……ここにいられたらよかったのにね)
ふと隣を見ると、制服を着た少女が並んで歩いていた。
ルーシー——いや、違う。その顔は目鼻立ちが歪み、まるで水に濡れた絵の具のようにドロドロと溶け落ちていく。
(なんで捨てるの? なんで僕たちを置いて、一人だけ向こうへ行ったの?)
前世で置き去りにしてきたはずの「平穏な日常」の断片が、鋭い刃となってルシアンの精神を切り刻む。
この空間そのものが、侵入者の前世の記憶と罪悪感を暴き出し、精神から死に至らしめる「原初の宿主」の防衛本能だった。
「……黙れッ!!」
ルシアンは自らの爪を額に深々と突き立てた。
——グシャッ……!!
自傷の痛みが脳髄を焼き、偽りの記憶とノイズを一瞬で掻き消す。
額からダラダラと血を流しながら、ルシアンは激しい息吐きとともに前世の幻想を蹴り飛ばした。
「そんな温もり……あの日、あの冷たい実験台の上で捨てた! 今さら僕を揺さぶれると思うなッ!」
自傷の代償として引き出された過剰修復の芽が、ルシアンの全身の皮膚を突き破り、黒赤の甲冑のように肉体を包み込んでいく。
背後でルーシーがそっと小さな手を伸ばし、ルシアンの腕を包み込んだ。
『お兄ちゃん……大丈夫。私は……ここにいるよ』
「……あぁ」
ルーシーの「怠惰」の波動が、精神を蝕む虚無の干渉を強引に遮断する。
幻想の街並みの奥、前世の東京タワーにも似た歪んだ骨組みの巨塔が、血のような赤光を放ちながら聳え立っていた。
あの塔の頂点に、自分たちのすべてを狂わせた「原初の宿主」が眠っている。
「行くぞ、ルーシー。あの偽りの街ごと、元凶を叩き潰す」




