第六十六話 侵食の刻印
「ひ、ひぃぃっ……! 来るな、来ないでくれぇぇッ!!」
【暴食】の因子を宿す肉塊の男が、貼り付いた複数の顔から血と唾液を撒き散らしながら絶叫する。
かつて教団の庇護のもとで弱者を貪り、ヴァルターの死に乗じて「神の座」を夢見た男の威厳など、そこには欠片も残っていなかった。
「逃がさない」
ルシアンの短い呟きと同時に、ルーシーの手が彼の背中を優しく叩く。
――ギィィィ……ン。
空間全体を包み込む「怠惰」の停滞領域。
【暴食】の男が放とうとした胃液の奔流も、巨躯を翻して逃走しようとした脚の動作も、すべてが極度のスローモーションへと落ち込んでいく。
「あ……が……体が……進ま……な……っ!」
「僕たちの前で背を見せたこと、あの世で悔いるといい」
ルシアンは迷わず自らの左大腿部の肉を鋭い爪で深く引き裂いた。
――バリッ、と大腿筋が削れる凄惨な音。
激痛が神経を焼き、脳が「死」を認知した瞬間に発動する過剰修復。
裂けた足元から爆ぜるように伸びた赤黒い肉芽の帯が、逃げ遅れた【暴食】の男の巨躯へと喰らいつき、その巨体を何十重にも緊縛した。
「ギニャァァァァッ……! 痛い、痛い、喰われる、俺の因子がぁぁっ!?」
肉芽は男の肉体を粉砕するにとどまらず、その胸元で蠢く【暴食】の因子そのものを「材料」として貪り食い、ルシアンの傷口へと再吸入されていく。
他者の因子を強引に過剰修復の糧として取り込む狂気の所業。
【暴食】の男が干からびた肉屑となって床に崩れ落ちるのと引き換えに、ルシアンの全身の皮膚に、ドス黒い不気味な紋様が静かに浮かび上がった。
「……ふぅ……っ……はぁ……」
膝をつき、激しい息吐きとともに荒い呼吸を繰り返すルシアン。
他者の因子を吸収したことで、胸腔の「傲慢」が不快な拒絶反応を起こし、体内の全細胞が互いを攻撃し合うような激痛が彼を襲う。
『お兄ちゃん……だめ……これ以上取り込んだら……お兄ちゃんまで……壊れちゃう……』
ルーシーがルシアンの首元に小さく抱きつき、必死に「怠惰」の波動を注ぎ込む。
彼女の触媒としての干渉によって、ルシアンの体内で暴れ回る【暴食】の残滓がどうにか中和され、漆黒の紋様が徐々に皮膚の奥へと沈んでいった。
「大丈夫だ……ルーシー。……これで、道は開けた」
ルシアンは血を吐き出しながら立ち上がり、三人目の宿主が倒れた背後の壁面を見据えた。
【色欲】や【暴食】の宿主たちが倒れたことで、彼らの因子とルシアンの過剰修復が共鳴し、旧施設最奥の「隠された隔壁」が重々しい音を立てて崩れ始めていた。
崩落した瓦礫の向こう側——。
そこに広がっていたのは、無機質な鉄とコンクリートの施設ではなかった。
前世の記憶にあるような「近代都市のビル群の影」と、異世界の「血と臓物で出来た不気味な樹木」がツギハギ状に混ざり合った、常理を逸脱した歪みな空間——『世界の裏層(虚無の領域)』への入口だった。
「……見てみろ、ルーシー。あの光景を」
ルシアンの瞳に、極冷の殺意と狂気が灯る。
「あの『原初の宿主』は……僕の前世の世界すら、自分の玩具として切り貼りしていたんだ。……あいつの創ったこの不条理な世界の全てを、僕たちの手で塗り替えてやる」
二人は確かな足取りで、不気味に歪む『世界の裏層』へと足を踏み入れていった——。




