第六十三話 共鳴する深淵
——ドシュッ……!!
ルシアンが自らの右掌を裂き、滾る血を黒い石柱に叩きつけた瞬間、静止していた空間が音を立てて砕け散った。
石柱の表面に刻まれた狂気的な幾何学模様が、血を吸い込むように昏い真紅の光を帯びて明滅を始める。
それと同時に、施設全体を揺るがすほどの凄まじい低周波の振動が、足元のコンクリートから直接骨の髄まで伝わってきた。
「ぐっ……!」
ルシアンの足元が大きく揺らぎ、膝をつきそうになる。
胸腔の奥底で暴れ狂う「傲慢」の因子が、石柱の奥から這い寄る『原初』の波動と共鳴し、肉体を内側から引き裂こうと激しく膨張した。
『お兄ちゃん……!』
背後でルーシーが声を張り上げ、その華奢な両手をルシアンの背中に回した。
彼女の固有能力である「怠惰」の時間が、崩壊しようとするルシアンの肉体を強引にその場に縛り付け、暴走を辛うじて押し止める。二人の因子の境界が摩擦を起こし、周囲の空気が熱を帯びて歪んだ。
だが、ルシアンの意識はすでに物理的な痛みの外側にあった。
石柱から逆流してきた圧倒的な情報量が、彼の脳髄を直接グリグリと掻き回していく。
——またしても、引き戻される過去の記憶。
それは、実験棟が最も狂気に満ちていた時期の記憶だった。
(被検体『ゼロ・フォー』の同期率が限界に達している! このままでは器が崩壊するぞ!)
白衣を血まみれにした研究員たちが、制御室の窓ガラスを叩きながら絶叫していた。
その向こう側、硝子の向こうの隔離室で、まだ幼かったルーシーが全身から黒い泥のような「怠惰」の霧を噴き出して痙攣していた。
彼女の傍らには、すでに原型を失いかけた最初の男の子が転がっている。
男の子は死に際、自分の肉が溶け落ちるのも構わず、ルーシーの小さな手を必死に握りしめていた。
(……なんで……動かないんだよ……)
男の子の喉から漏れたのは、声にならない最後の呪詛だった。
(俺は……もっと……高く……空の果てまで……行きたかったのに……こんなドブ底で、なんで……)
その直後、男の子の身体は限界を迎え、内側から盛大に破裂した。
飛び散った血肉と濁った因子が、部屋の隅で縮こまっていた幼いルーシーの全身を真っ黒に染め上げた。
すべてを失い、感情のすべてを削ぎ落とされた「ゼロ・フォー」という名の抜け殻が完成した瞬間だった。
(——おい、見ろよ)
その惨劇を、冷酷な目で冷ややかに見下ろしている男がいた。
若き日のヴァルターではない。さらにその背後、実験棟の最奥で、白衣ですらなく、ただ異界の衣服を纏った「見知らぬ男」が、硝子の向こうで楽しげに笑っていたのだ。
(これが、僕が創った世界のおもちゃ箱さ。どうだい、ゼロワン? 君のその『傲慢』は、この絶景に耐えられるかい?)
「……っ……貴様……!」
ルシアンの喉から、血を吐き出すような怒号が漏れた。
今の記憶に映り込んだ「見知らぬ男」。
それは人間ではない。人間の姿を借りながら、その本質はあまりにも異質で、あまりにも冷酷な――この世界そのものの理を紡ぎ出した「原初の宿主」の影だった。
すべての元凶が、最初から自分たちを嘲笑っていたという事実。
ルシアンの瞳孔が開き、漆黒の殺意が極限まで跳ね上がる。
「お前だな……僕たちをこのゴミ溜めに投げ込んだのは……!」
ルシアンが叫んだ瞬間、石柱の表面に亀裂が走り、中からドス黒い光の奔流が天井へと突き抜けた。
旧実験施設の最深部が覚醒を始める。
それは同時に、この世界の理の外側にいた「原初の大罪の宿主」が、ルシアンたちの存在に完全に気づいた瞬間でもあった――。




