第六十一話 澱みの底で
【嫉妬】の宿主だった異形の残骸が、酸性度の高い液汁へと溶けて床の鉄板をじくじくと焼き焦がしていく。
その嫌な煙が漂う通路を抜け、二人はさらに下方へと続く螺旋階段を下りていた。
一段踏み外せば底なしの闇へと滑り落ちそうなほど、階段の踏み板は脆く錆びついている。
地下深くへ向かうにつれ、空気は重く、冷たく、そして何より「生の気配」が希薄になっていった。
「……ルーシー」
「……なに、お兄ちゃん」
「あの【嫉妬】の男が死に際に言っていた……教団の『最高傑作』という言葉。覚えているか」
ルーシーはルシアンの服の裾を小さな手で掴んだまま、静かに首を横に振る。
「……ううん。でも……ここに来ると、頭の奥がズキズキする。あの部屋が……近いのかもしれない」
「あの部屋?」
「私たちが……最初に会った場所」
ルシアンの足が、ピタリと止まる。
階段の突き当たりに現れたのは、巨大な二重構造の防圧扉だった。
分厚い鋼鉄の表面には、無数の「拒絶」の痕跡が残っている。爪で引っ掻いた跡、頭を叩きつけたであろう凹み、そして乾いて黒ずんだ血の層。
ルシアンがその扉に触れると、冷たい鉄の感触とともに、先ほど打ち倒した【嫉妬】の残骸よりもさらに重く、深く歪んだ波動が「傲慢」の因子を揺さぶった。
――ガシャコン……ギギギギギ……ッ!
すでに電源の落ちているはずの制御機構が、ルシアンの因子に反応して悲鳴を上げながら作動する。
重厚な扉がゆっくりと左右に開き、内部の光景が露わになった。
そこは、無数の「硝子製の培養槽」が打ち捨てられた、広大な円形実験室だった。
割れた硝子の破片が床一面に散乱し、干からびた防腐液の跡が斑点模様を描いている。
中央の吊り下げ式プラットフォームには、壊れたモニター群と、膨大な手記が乱雑に放置されていた。
ルシアンは倒れた車椅子を踏みつけながら、中央のコンソールへと歩み寄る。
埃を被った古い紙束を拾い上げ、そこに記された雑な筆跡を目で追った。
『実験記録:被検体【プライド・ゼロワン】(転生個体)および【ゼロ・フォー】の共鳴反応について』
その文字を見た瞬間、ルシアンの網膜が激しく明滅した。
過剰修復の芽が脳神経を突き刺し、封印されていた記憶の扉が、強烈な暴力となって解き放たれる。
(おい……起きろよ、ゼロワン)
耳元で聞こえたのは、冷たい声だった。
前世の記憶を抱えたまま、この世界の地獄に叩き落されたばかりのルシアン。
全身の皮膚がひび割れ、自傷と過剰修復の無限ルーブに狂いそうになっていた彼の視界に映っていたのは——白衣を着た教団の研究員たちではなく、まだ若き日の「ヴァルター」だった。
当時のヴァルターは、まだ後年の絶対的な「純化の神雷」を纏ってはいなかった。
だが、その瞳にはすでに、世界と教団のすべてを軽蔑するような、静かな絶対の拒絶が宿っていた。
(お前たちの因子は……失敗だ。教団の上層部はこれらを『神の力』と呼ぶが、実態は世界そのものを歪めている元凶の『糞の欠片』に過ぎない)
ヴァルターはルシアンの胸の傷口を、足の先で無造作に踏みにじった。
(ぐっ……あ……っ!)
(苦しいか? 痛いか? だが安心しろ、ゼロワン。お前が死んでも、次の『器』が補充されるだけだ。この世界そのものが、そういう風に創られている)
ヴァルターの冷酷な言葉。
彼は当時から、教団の「大罪の因子による人類拡張」という思想を根底から憎悪していた。
彼が求めていたのは、因子の力による進化などではない。
因子という病魔を生み出し、人間を弄ぶ「この世界の理そのものの消去」——すなわち【純化】だったのだ。
(知りたいか、ゼロワン? なぜお前のような異界の魂が、この世界に引きずり込まれたのか)
ヴァルターは倒れているルシアンを見下ろし、嘲笑うように吐き捨てた。
(お前を呼び寄せたのは、教団の術式ではない。……この世界を創り、今もどこかで眠っている『原初の宿主』だ。あいつが、己の退屈を紛らわすために、お前たちの魂をこのドブ底へ放り込んだのだよ)
「……僕を……呼び寄せただと……?」
記憶から引き戻されたルシアンは、手の中の手記を握りつぶした。
転生は、偶然事故に遭ったからでも、神の気まぐれでもなかった。
この歪んだ世界を構築した「原初の宿主」が、自らの玩具としてルシアンを前世から引きずり下ろし、この地獄へと投げ落としたのだ。
「……ハハハ……ッ、そうか……そうだったのか……!」
ルシアンの口から、低く濁った笑いが漏れ出す。
背後に立つルーシーが、不安そうにルシアンの服の裾を固く握りしめた。
「ルーシー……目的地が決まったぞ」
ルシアンは振り返り、狂気に満ちた、だがどこまでも澄み切った瞳で少女を見つめた。
「教団の残党も、他の大罪もどうでもいい。……僕たちをこんな玩具にした『創世の元凶』を、この手で引き裂きに行く」




