第五十九話 肉の蠢動と嫉妬の芽
「ヒヒッ……! 傲慢の……いや、『プライド・ゼロワン』かぁ!?」
粘液の混じった甲高い叫びとともに、無数の腕を蠕動させる巨躯が通路の暗闇を押し広げるように迫る。
男の原型をかろうじて留めた頭部は、肉塊の頂点に歪に埋め込まれていた。その右眼は潰れ、左眼だけがギラギラとした異常な執着を滾らせてルシアンを捉えている。
胸元でドクドクと脈打つ黒紫色の結晶——『嫉妬』の因子。
ヴァルターという絶対の檻が壊れたことで、旧施設の最深部から解き放たれた過酷な失敗作の生き残りだ。
「教団の最高傑作……! 誰もが羨んだお前のその『修復』の力……! 奪ってやる、俺に寄越せぇぇッ!!」
——ガシャァンッ!!
何本もの肥大化した腕が同時に壁を蹴り、異形の蜘蛛のごとき速度で天井を這いながら爪を振り下ろす。
空間を切り裂く風圧だけで、腐食した配管が弾けて蒸気が噴き出した。
(速い——だが)
ルシアンは微動だにせず、ただ己の右胸に左指を深々と突き立てた。
——メキリッ、と鈍い音が鼓膜を打つ。
肋骨を自らへし折り、臓器を傷つける極限の自傷。
脳髄を焼く死の恐怖と痛覚が奔流となって溢れ出すと同時に、その代償としての過剰修復が狂暴なまでのエネルギーへと変換される。
ふと、ルシアンの視界が歪んだ。
猛進してくる異形の姿と重ね合わさるように、鮮明な「過去」の景色が脳裏にフラッシュバックする。
(……おい、返事をしろよ! なんでお前だけなんだ!?)
薄暗い鉄格子の向こう側。
かつての実験棟で、隣の房に閉じ込められていた少年の声だ。
顔も名前も思い出せない。ただ、その少年の腕は因子の拒絶反応で黒く腐り落ち、ボロボロの肉片を撒き散らしていた。
(俺だって……俺だって『上』に行きたかった……! なんで前世の記憶があるとかいう気味の悪いお前だけが……壊れないんだよぉッ!!)
憎悪と嫉妬に狂った少女や少年たちの眼光。
教団が撒き餌のように与えるわずかな食糧と、生き残るための「適合」という名の拷問。
ルシアンが前世の自我を支えにしてどれだけ耐え抜こうとも、周囲の被検体たちからは「選ばれた化け物」としてただひたすらに妬まれ、呪詛を吐き掛けられ続けた。
——誰もが、他人の生を羨み、自分の地獄を他人のせいにしていた。
——だが、この地獄を選んだ奴なんて誰もいない。
「……奪うだと?」
フラッシュバックから引き戻されたルシアンの瞳に、極冷の殺気が宿る。
「嫉妬に狂って己の肉体をドブに捨てた雑魚が……僕の血を掠め取れると思うなッ!」
背後に控えるルーシーから波及する「怠惰」の波動。
自傷によって引き起こされた絶望的な破壊速度が死線の一歩手前で「停止」し、右腕へと高密度で凝縮されていく。
皮膚を破って噴き出した黒赤の肉芽が、一本の太い「槍」となって収束した。
「失せろ」
踏み込み一発。
地盤が削れ、跳びかかってきた【嫉妬】の宿主の懐へと、ルシアンは自傷の過剰修復を宿した右拳を直球で叩き込んだ——。




