第五十八話 深淵の産声
静寂が支配する地下旧施設。
足を踏み入れるごとに、足元でカチリと湿った音が響く。どこかの配管から漏れ出した水滴と、半ば凝固した謎の粘液が混ざり合った悪臭が鼻腔を突いた。
照明の落ちた暗闇の中、壁面に刻まれた文字がぼんやりと浮かび上がっている。
半ば削れ、爪で掻き毟られたような跡が残る教団の徽章。そして、被検体のナンバリングを示す無数の刻印。
「……ルーシー、ここに見覚えはあるか」
ルシアンの問いかけに、後ろをついてくる少女は首を横に振った。
『……ううん……ここは、もっと深い……。私たちが……声を奪われてた場所よりも……ずっと前……』
彼女の瞳は暗闇の中でも光を宿さず、ただ前方の闇を見つめている。だが、ルシアンの体内に巣食う「傲慢」の因子が、この空間に漂う微小な残留波動に反応して、不快な蠢動を始めていた。
(……間違いない。ここは教団が因子を精製していた『原初』の施設だ)
かつてルシアンが冷たい鉄の台の上で胸を刺し穿たれ、転生者としての精神をズタズタに引き裂かれた場所。
前世の記憶にあった平穏な世界——家族や友人、何の変哲もない日常の輪郭が、この施設での絶望と苦痛によって塗りつぶされていった過酷な日々。
あの日、男たちはルシアンを「奇跡の被検体」と呼んだ。
本来なら因子の過剰反応で即座に肉体が崩壊するはずだったのに、ルシアンの内にあった「前世の強い自我」と「死への凄惨な拒絶」が、異質なまでの過剰修復の芽を生み出したからだ。
「ふん……皮肉なものだな」
ルシアンの口元に、乾いた笑みが浮かぶ。
前世での生への執着が、異世界で彼を人ではない「化け物」へと変えさせた。
そのとき——奥深くの通路から、ぬちゃり、と肉が爆ぜるような異様な音が響いた。
「ひ……ヒヒッ……! 来た、来たぞ……! ヴァルターの奴が死んで、ようやく俺たちの時代が……ッ!」
闇の中から這い出てきたのは、人間の原型を留めていない異形の影だった。
上半身は肥大化した肉の塊となり、そこから幾重にも重なった人間の腕がムカデのように這い回っている。その胸元には、黒く脈打つ不気味な結晶——【嫉妬】の因子が宿っていた。
「教団の残りカスか、それとも野に放たれた野良の宿主か」
ルシアンは視線を冷たく細め、右腕の筋肉を自ら力任せに引き裂いた。
——メリメリッ……!!
激痛とともに爆ぜる過剰修復の芽。
背後でルーシーがそっと息を呑み、その「怠惰」の因子で崩壊の時間を強引に停滞させる。
過去の惨劇の始まりの地で、ルシアンと新たな「大罪の宿主」との血塗られた死闘が始まろうとしていた——。




