第五十七話 灰の境界
中央都市の惨劇から数日。崩壊した大理石の街並みが放つ熱気と異臭は未だに消えず、吹き抜ける乾いた風が、街のあちこちに積もった黒い灰を虚しく空へ舞い上がらせていた。
ヴァルターという絶対の暴力、そして重石が消え去った世界は、皮肉にも平和ではなく、底知れない混沌へと突入していた。
教団の組織網が霧散したことで、これまで厳重に秘匿され、あるいは地底の奥深くに封じられていた「大罪の因子」を宿す者たちが、枷を外された猛獣のごとく世界各地で蠢き始めているという。噂の断片が、風に乗るように生き残りたちの口から漏れ伝わっていた。
だが、ルシアンはそのような世迷言に興味はなかった。
彼の関心にあるのは、自らの肉体に巣食う「傲慢」の因子の脈動と、その暴走を辛うじて繋ぎ止めている背後の少女——ルーシーの存在だけだ。
「……また、この匂いだ」
荒れ果てた街道の脇、ひび割れたアスファルトに片膝をつきながら、ルシアンは自らの右腕を見つめた。
ヴァルターとの死闘で粉々に砕け散った腕は、ルーシーの「怠惰」の因子による時間の停滞と、ルシアン自身の過剰修復によってどうにか元の皮膚の形を取り戻している。だが、皮膚の下では今も赤黒い肉の芽が絶えず蠢き、神経を逆撫でるような鈍痛を放ち続けていた。
その少し後ろ、崩れかけたコンクリートの残骸に腰掛けているルーシーは、感情の消えた瞳でただぼんやりと空を見上げている。
『……お兄ちゃん……痛いの……?』
掠れた、体温の感じられない少女の声。
「痛みなんてものは、もう麻痺している。……問題なのは、この体の中で暴れようとする『原初の構造』だ」
ルシアンは立ち上がり、前方にそびえ立つ巨大な建造物の残骸を見据えた。
それはヴァルターがいた中央都市のさらに地下深く、教団が生まれるよりもはるか以前、この世界に「大罪の因子」が持ち込まれたとされる最古の旧実験施設——その隠された入り口だった。
街の崩壊に乗じて手に入れた教団の極秘文書には、こう記されていた。
この世界の理を歪め、人間を器として改造するための「始まりの場所」には、今や野に放たれた他の大罪の宿主たちをも凌駕する、さらなる深淵が眠っていると。
「行こうか、ルーシー。僕たちの肉体をこんな風に作り変えた元凶の足跡が、どこに続いているのか確かめてやる」
ルシアンが歩き出し、ルーシーが音もなくその後を追う。
重く錆びついた旧施設の鉄扉にルシアンが触れた瞬間——冷徹な鉄の感触が、彼の脳髄の奥底に鋭い刺を突き立てた。
ざわざわと、意識の底から泥のような記憶が逆流してくる。
それは、暗澹たる「最初の日」の記憶だった。
(……ここは、どこだ……?)
見知らぬ天井。異世界の青とも違う、人工的な無機質な照明の光が網膜を焼いた。
前世の記憶——平和な日常の感覚、コンクリートとコンクリートの隙間にあった平穏な営みが、まるで他人の絵巻物のように脳の隅へ追いやられていく。
気がついたとき、ルシアンは冷たい鉄の台の上に両手足を強固に縛り付けられていた。
動かない。声が出ない。ただ肺が呼吸を強要し、心臓がけたたましく鳴り響いている。
「被検体番号……『プライド・ゼロワン』。意識の覚醒を確認」
冷酷な白衣の男たちの声が、遠くで響いていた。
彼らが手にした無機質な注射器の先端から、ドス黒く濁った粘液——常人であれば一瞬で精神が崩壊し、肉体が溶け落ちるという「傲慢の因子」が覗いていた。
「待て……何をする……っ!」
声にならない叫びを無視し、男たちは迷うことなく、ルシアンの心臓の真下——胸腔へとその濁った劇薬を直接突き入れた。
——ズプッ……!!
「あ……あぁぁぁあぁぁあっ……!!!?」
世界が反転した。
血管という血管に沸騰した鉛を流し込まれたような、全身の細胞が内側から引き裂かれる激痛。肉体は自らの構造を維持できず、ただ膨張し、破裂し、再生を強要されるという終わりのない地獄が始まった。
意識が何度も途切れ、そのたびに狂気的なまでの過剰修復の芽が脳を焼き切る。
「死ねない」という絶望的な呪いが、ルシアンの肉体を無理やり繋ぎ止め、ただ痛みに悶えるだけの「器」へと作り替えていく。
「見ろ、拒絶反応による崩壊を自己修復が勝っている……! なんという異常な生存本能だ……!」
白衣の男たちが狂喜に満ちた声を上げる中、ルシアンの瞳から涙ではなく血が流れ落ちた。
救いなどない。慈悲もない。
理不尽な暴力と、理由なき改造によって世界に放り出されたその瞬間から、ルシアンのなかにあった「人間としての温もり」は死に絶え、代わりに冷徹で狂気的な生存への執着だけが残り続けた。
——オレを壊すものは、すべて許さない。
——たとえこの世界を創った神であっても、この手で引き裂いてやる。
「……っ……はぁ……」
微かな息の乱れとともに、ルシアンは現実の空間へと引き戻された。
目の前には、錆びついた旧施設の重い鉄扉が、今まさに不気味な暗闇を口開けて待っている。
冷や汗が頬を伝い落ちるが、ルシアンの眼光はかつてないほどに冷たく、そして鋭く研ぎ澄まされていていた。
「……思い出したか、あの時の感触を」
誰もいない闇に向かって呟き、ルシアンは歪んだ笑みを浮かべる。
過去の記憶の底から這い上がってきたのは、恐怖ではない。あの日の絶望を何倍にもして叩き返してやるという、底知れぬ狂気だった。
旧施設の鉄扉を押し開き、二人は闇の深淵へと足を踏み入れていく——。




