第五十六話 破滅の果てに
自らの胸腔を引き裂いた左手が、心臓の鼓動を直接掴み取る。
——ギチ、バキッ……!!
肉が裂け、肋骨がひしゃげる凄まじい自傷。
脳髄を焼き切るほどの激痛が奔流となり、ルシアンの意識を白濁させる。だが、その瞬間に背後から放たれたルーシーの「怠惰」の因子が、死の淵へと落ちかける意識と崩壊寸前の肉体を強引にその場で縫い止めた。
死ねない。崩壊もしない。
ただ、自傷の代償として生み出された膨大な過剰修復のエネルギーと絶望的な痛覚だけが、極限まで圧縮されてルシアンの肉体に満ちていく。
「……オラァッ……!!」
黒と赤の瘴気が幾重にも絡み合い、吹き飛んだはずの右腕が異形の肉の塊となって爆誕する。それはもはや人間の腕ではなく、『傲慢』の概念そのものを物理的に具現化した絶対的な破壊の武器だった。
「神の庭だと……? 笑わせるな。地獄の底で、お前の神にでも慈悲を乞うんだな、ヴァルター——ッ!」
踏み込んだ足元の大理石が粉々に砕け散り、ルシアンの巨躯が神雷の如く弾けた。
「……愚か者が」
ヴァルターの瞳に初めてわずかな動揺が走る。
彼は全霊を込め、神聖な気束を纏わせた大剣を振り下ろした。全てを断ち切る絶対の浄化の一撃。
——ガァァァンッ!!!
世界が引き裂かれるような凄まじい金属音と爆風が、中央広場を文字通り消し飛ばした。
ヴァルターの大剣と、ルシアンの異形の右拳が真っ向から激突する。
衝撃波が周囲の瓦礫を塵に変え、大地が陥没する。
純化の光がルシアンの肉体を焼き焦がし、皮膚が炭化していく。だが、背後に立つルーシーの「停滞」の領域が、その焼き尽くされる速度を極限まで鈍らせ、ルシアンの推力を維持し続けた。
「ぐっ……あぁぁぁ……ッ!!」
「消え去れ、異端の塵が……ッ!」
互いのすべてを賭けた力の拮抗。
しかし、自らの命を削り、無数の死を乗り越えてきたルシアンの「狂気」の密度は、ヴァルターの掲げる教義の重さをわずかに凌駕していた。
——メリメリメリッ……!
ヴァルターの振るう神聖な大剣の刃に、亀裂が走る。
「なっ……!?」
「僕を踏み潰せるのは、僕だけだ……ッ!!」
ルシアンが絶叫とともに全身の筋肉を爆ぜさせ、過剰修復の限界突破を叩きつける。
砕け散った大剣の破片が飛び散り、空いたその中心を、ルシアンの異形の拳がヴァルターの防御を完全に穿って貫いた。
——ズシャァァァンッ!!!
「がっ……あ……っ……」
ヴァルターの口から鮮血が噴き出す。
絶対の暴力として君臨し、すべてを切り捨ててきた純化派の頂点が、初めてその膝を地面につけた。
ルシアンは荒い息を吐き出しながら、血まみれの拳をヴァルターの胸元から引き抜いた。
ヴァルターの巨体が、音もなく崩れ落ちる。
静寂が戻った中央広場には、砕け散った瓦礫と、血の海だけが広がっていた。
ルシアンは片膝をつき、激しく脈打つ胸の傷口を乱暴に押さえる。
全身の骨が悲鳴を上げ、過剰修復の芽がジリジリと肉を繋ぎ合わせようと蠢いている。
『……お兄ちゃん……』
背後から、足音もなくルーシーが歩み寄ってきた。
彼女の衣服も血に染まっているが、その光のない瞳に恐怖の色はない。ただ静かに、ルシアンの背中を見上げていた。
「……行くぞ」
ルシアンは振り返ることなく、崩壊した中央都市の瓦礫を乗り越えて歩き出す。
教団の支配も、レジスタンスの野望も、ヴァルターという絶対の脅威も、すべてはこの血の海に置いてきた。
残されたのは、壊れかけた宿主と、その命を繋ぐ歪な触媒の少女だけ。
痛みに満ちた荒野の果てへ向けて、二人の影は静かに、だが確かな足取りで闇の中へと消えていった——。
【第二部:中央都市攻略・ヴァルター決戦編完】
いつもブクマや★、リアクションを送ってくださる皆様、本当にありがとうございます!励みになります!




