第五話 壊れた天秤
「ひ、ひぃっ……来るな、来ないでよバケモノっ!」
さっきまで無邪気に人を喰らっていた『暴食』の少年が、腹の傷を押さえながら尻餅をついて後ずさる。
僕の腹からは、まだドロリとした血が溢れ落ちていた。けれど、傷口はすでに塞がり、皮膚は完璧に結合している。
痛い。当然だ。
内臓を破られ、肉を千切られた激痛の記憶が、全身の神経を刃物で刻むように苛み続けている。
けれど、僕は足を止めなかった。
「喰ってみろよ。僕の肉も、内臓も、心臓も……いくらでも差し出してやる」
一歩、踏み出す。
前世の僕なら、こんな狂気じみた行動なんて絶対にできなかった。
だが、エレナの冷たくなった遺体が視界の端に入るたび、胸の奥で何かが冷たく冷えていくのがわかる。
「死ねない」なら、この体をどう使えばいい?
相手を切り裂く剣も、焼き尽くす魔法もない。なら、この「死なない肉体」そのものを、相手を潰すための楔にするしかない。
「ふ、ふざけるなよ! 僕は『七つの大罪』だぞ! 虫ケラが調子に乗るなっ!」
恐怖に耐えかねた少年が絶叫し、地面を蹴った。
次の瞬間、僕の視界から彼の姿が消える。
ドスッ、ガツンッ!!
激しい衝撃とともに、僕の両腕が肘のあたりから跳ね飛んだ。
続いて、両膝が砕かれ、僕は血の海の中へ膝から崩れ落ちる。
「あ、ぁ……っ!!」
声にならない悲鳴が口から漏れる。
両腕の断面から勢いよく血が噴き出し、砕けた膝の骨が皮膚を突き破って飛び出していた。
「ハハッ! 動きを止めれば終わりなんだよ! 骨ごとぐちゃぐちゃに潰してやる!」
少年が狂ったように笑いながら、僕の胸を踏みつけ、頭部を目掛けて鋭い爪を振り下ろした。
ガチ、と硬い音が響く。
僕の頭蓋骨が叩き割られ、視界が真っ暗に染まった。脳漿が飛び散り、意識が強烈な闇へと引きずり込まれそうになる。
だが。
——我が頭を砕くか。
——無知なる豚が。その命、ここで潰えるがいい。
【ユニークスキル:『我が至高なる存在』発動】
暗闇の中で、圧倒的な冷酷さが弾けた。
飛び散った僕の脳漿、割れた頭蓋骨の破片、そして跳ね飛ばされた両腕が、まるで意思を持った赤い大蛇のように蠢き出す。
「え……なん、で……っ!?」
少年の驚愕の声。
跳ね飛ばされた僕の二本の腕が、地面を滑り、少年の両脚に強烈に巻きついた。
そして、飛び散っていた血と肉の繊維が、少年の全身を縛り上げる縄となって、凄まじい力で収束を始める。
「ぎゃああああああああっ!??! 離せ、離せぇぇぇっ!!」
少年の悲鳴が響き渡る。
僕の肉体が元に戻ろうとする強烈な引き寄せの力(概念の修復)に巻き込まれ、少年の両脚の骨がバキバキと音を立てて折れ曲がっていく。
そして、僕の頭部と腕が強引に再結合した。
「ガあぁぁぁぁぁぁぁッ……!!!!」
脳が強引に繋ぎ合わされる激痛。
両腕の筋肉が擦れ合いながら引っ付く摩擦の激痛。
視界が急速に色を取り戻すと同時に、僕は少年の首を、再生したばかりの手で力任せに掴んでいた。
「が、は……っ、はな……し……っ」
少年の口から血が溢れ出る。
彼の両脚は、僕の肉体が修復される際の力に巻き込まれて、あり得ない方向へと折り曲げられていた。
「『暴食』……君の言う通り、僕は化け物だよ」
僕は少年の首を絞める手に、さらに力を込めた。
僕の腕の力自体は、ただの人間と変わらない。けれど、彼脚を潰され、僕の『死ねない呪い』の異常さに精神を折られた少年には、もう抗う力すら残っていなかった。
「助け……て……お兄さ……」
「僕に助けを求めるな。エレナも……村の人たちも、君にそう叫んでいたはずだ」
バキッ、という鈍い音が響いた。
少年の瞳から光が消え、首が力なく折れ曲がる。
『七つの大罪』の一角、『暴食』が、血の海の中で動かなくなった。
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
僕は静まり返った広場で、冷たくなった少年の死体を泥の中に放り投げた。
倒した。けれど、勝利の喜びなんて微塵もない。
全身を苛む激痛と、壊れてしまった自分の心が、重く重くのしかかってくるだけだった。
「あは……あははは……」
血に塗れた自分の手を見つめながら、僕は冷たい雨が降り始めた空を見上げた。
『七つの大罪』を一人倒した。
だが、この世界には、まだあと五人の化け物が存在している。
そして、何より惨烈なのは——僕自身が、彼ら以上の狂気と激痛を抱えた「死ねない怪物」へと変わり果ててしまっていることだった。




