第四十二話 残滓の狩人
中央大都市の全域が『黒の天秤』の制圧下に置かれ、白亜の聖堂は黒煙を吐く焦土へと変貌した。
教団の中枢は崩壊し、高官たちは討たれた。だが、それで聖導教団という巨大な怪物そのものが死に絶えたわけではない。逃げ延びた地方の異端審問官や、各地に残存する教団の武装勢力が、新たな火種として蠢き始めていた。
「……ハッ、ぐっ……!」
地下の薄暗い下水路。
ルシアンは壁に背を預け、冷え切った泥水の中に膝をついていた。
激しい戦闘の代償として、左の肋骨が内側から肺を突き破っている。
息をするたびに血の味が込み上げ、意識が暗闇へと引きずり込まれそうになる。だが、ルシアンはその痛みを燃料にするように、自らの左手で折れた肋骨を無理やり掴み、引き抜き直すような要領で位置を正した。
——バキッ、ボキリ。
「……あ……がっ……!」
耐え難い激痛が脳髄を焼き、過剰修復の熱線が全身の血管を暴走させる。
視界が真っ赤に染まり、耳鳴りがやまない。だが、その狂気的な自傷と再生のループこそが、ルシアンから「温かい思い出」や「失った者たちへの後悔」を綺麗に削ぎ落としていく。
(痛い……もっとだ。僕の体が完全に壊れるまで、痛みを焼き付けろ)
温もりなど要らない。仲間など要らない。
誰かと手を取り合うことは、すなわち誰かを失う地獄の始まりなのだから。
すべてを切り捨て、すべてを拒絶し、ただの「殺戮の兵器」として生きることだけが、今のルシアンに許された唯一の道だった。
「――おい。こんなところにいたのか、ルシアン」
水音を立てて、下水路の暗がりから歩いてきたのはギルバートだった。
かつてのような不敵な笑みはなく、その隻眼には冷徹な計算と、一抹の警戒の色が浮かんでいる。
「『黒の天秤』は都市の制圧を完了した。だが、東方の要塞都市『グラン・ゼル』に、逃げ延びた教団の残党——かつての筆頭審問官どもが結集しているらしい。連中が立て直しを図る前に、根絶やしにする必要がある」
ギルバートはふっと冷ややかに笑い、ルシアンを見下ろした。
「お前のその不滅の肉体と、教団を壊滅させた狂気……あれをもう一度貸してほしい。グラン・ゼルへの特攻の先陣を切るのは、お前以外にいない」
ルシアンは血に染まった顔をゆっくりと上げ、濁った瞳でギルバートを射抜いた。
「……僕をまた、使い捨ての肉壁にする気か」
「否定はしないさ。お前も教団の息の根を完全に止めたいはずだ。利害の一致……そうだろ?」
ルシアンの口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。
利用し合っている。お互いに隙あらば相手の喉笛を掻き切るつもりで、それでも目の前の目的に向かって牙を突き立て合う。その歪みきった関係こそが、いまのルシアンにとっては最も心地よかった。
「いいだろう」
ルシアンは泥水から立ち上がり、自らの右手首を再びバキリと力任せに折り曲げた。
凄まじい激痛と共に、全身の血流が殺意の熱を帯びて沸騰する。
「グラン・ゼルへ行く。教団の残党どもが一匹残らず絶命するまで、すべて噛み殺してやるよ」
冷酷な利害で結ばれた異形の共犯関係は、新たな血の戦場——要塞都市グラン・ゼルへとその矛先を向け始める。
復讐の歯車は止まらない。怪物はただ、痛みを糧に前進し続ける。




