第三十六話 前夜の決壊
侵入作戦開始まで、あと数時間。
地下兵器庫の奥深く、錆びついた鉄骨が剥き出しになった一角で、ルシアンは一人泥の上に座り込んでいた。
——カツン、カツン。
自らの右足の小指を、手で強引に逆方向へへし折る。
骨の砕ける鈍い音と同時に、脳を突き刺す強烈な激痛。そして即座に体内で暴走する『我が至高なる存在』の過剰修復概念が、肉と骨を泥臭く接合していく。
「……ハッ、ぁ……っ」
冷や汗が顎をたどり、泥水へと滴り落ちる。
なぜ今、身体を傷つけるのか。痛みを忘れないためだ。
一度でも痛みが途切れれば、脳裏に浮かび上がってくる——かつて自分を人間として扱い、温かい飯を分け合い、そして目の前で凄惨に肉を削ぎ落とされたガルドたちの姿が。
(……思い出すな。要らない。仲間も、絆も……情なんてものは、自分と周りを滅ぼす毒でしかない)
心を殺し、感情を塗り潰すための自傷。
痛みこそが、ルシアンを「ただの兵器」として繋ぎ止める絶対の防壁だった。
「……おい、ガキ」
暗がりから声がした。
振り向くと、若い『黒の天秤』の構成員が、毛布と冷え切ったパンの入った器を手に突っ立っていた。ルシアンと同年代ほどの少年だ。
「幹部に言われて持ってきてやった。……食えよ」
少年はルシアンの足元に転がる壊れた骨の破片と、自傷の痕だらけの異様な姿に引きながらも、どこか哀れむような視線を向けていた。
「お前……作戦が始まったら、一人で教団の聖堂地下に突っ込むんだろ? 陽動があるとはいえ、生きて戻れる保証なんて——」
「……失せろ」
ルシアンは地の底から響くような低い声で吐き捨てた。
差し出されたパンを視線すら向けずに無視し、掠れた声で続ける。
「僕に話しかけるな。同情するな。お前たちの顔も、名前も、僕は覚える気はない」
「な……ッ! なんだよその言い草! 俺は親切で——」
「親切?」
ルシアンはゆっくりと立ち上がった。
グニャリと曲がった指を目の前で強引に嵌め直し、生気のない濁った瞳で少年を射抜く。
「お前たちの幹部は、僕をただの使い捨ての肉壁として教団に投げつける気だ。そして僕も、お前たちの命と組織の戦力を、自分の復讐のためだけに利用する。……ここに『親切』なんて生温いものが割り込む余地はない」
「っ……!」
少年の顔が恐怖と悲壮感で引きつる。
ルシアンの発する圧は、もはや人間のそれではない。生きながらにして死体となり、復讐の情念だけで動く「不滅の災厄」そのものだった。
「お前が死のうが、僕が死のうが、お互いどうでもいいはずだ。……二度と僕の視界に入るな」
少年は言葉を失い、逃げるように闇の奥へと走り去っていった。
残されたパンが、冷たい泥の中に転がる。
ルシアンはそれを見下ろすこともなく、再び壁に背を預けた。
誰とも繋がらない。誰も救わない。
この冷酷な絶望こそが、自分に与えられた唯一の救い。
遠く地上から、爆発の予兆を示す不穏な地鳴りがかすかに響き始めていた。
『黒の天秤』の陽動工作——そして、ルシアンが教団の本拠地へと解き放たれる惨劇の夜が、刻一刻と近づいていた。




