第三十二話 黒の天秤
迷宮街の最奥。
そこは地上にある聖導教団の煌びやかな光が絶対に届かない、泥と錆と腐臭に満ちた鉄の墓場だった。
「……ハッ、ぐっ……!」
ルシアンが歩くたび、泥水の中で右足の膝関節が音を立てて砕け散る。
すかさず体内で暴走する『我が至高なる存在』の過剰な修復概念が、肉と血管を無理やり撚り合わせ、骨を再構築する。脳髄を直接かき混ぜられるような激痛が走るが、ルシアンの瞳に光が戻ることはない。
——痛い。だが、この痛みだけが生の実感を教えてくれる。
温もりなどという毒に二度と侵されないための、確かな防壁だ。
「おい、止まれ。そこから先は『黒の天秤』の管理領域だ」
冷徹な声と共に、暗がりから数人の男たちが姿を現した。
かつてレヴィアで出会ったガルドたちの小さなレジスタンスとは違う。揃いの黒い軍用外套、洗練された魔導クロスボウ、そしてその目に宿る「プロの戦闘員」特有の殺気。
彼らが所属するのは、中央大都市の地下に数千人の組織網を持つ最大規模の反教団・武装レジスタンス組織『黒の天秤』だった。
「身分を明かせ。この領域でその血みどろの有様……教団の犬か、あるいは捨てられた異端者か」
警戒心を露わにした斥候の一人が、銃口をルシアンの眉間に突きつける。
ルシアンはその銃口を冷ややかに一瞥し、掠れた低い声で吐き捨えた。
「……邪魔だ。失せろ」
「……なっ! 生意気なガキだな、拘束する!」
斥候が踏み込み、ルシアンの腕を掴もうとした瞬間。
ゴキッ!!
「ぐっ……!?」
ルシアンは自らの左手首の骨を、躊躇うことなく全体重をかけてへし折った。
刹那、その自傷の破壊衝動を起点として、体内で煮えたぎる『我が至高なる存在』の過剰血流が爆発的に噴き出す。それは周囲の空間を圧迫するほどの禍々しいプレッシャーを伴い、男たちの武器を根元から粉々に破砕した。
「な、なんだこれ……!? 腕を自分で折りやがった……!?」
「化け物……ッ!?」
圧倒的な狂気と、人間離れした異常性に、歴戦の組織員たちが恐怖で後退りする。
ルシアンは血に染まった左手首を強引に逆向きへ捻り、グニャリと音を立てさせながら元の形へと強制接合した。
「僕の邪魔をするなら、お前たちの血もこの泥に混ぜる。教団の喉笛のありかを知っている奴を出せ」
「……ほう。面白いな」
重い足音が響き、武装した一団の隙間から一人の男が歩み出してきた。
隻眼の眼帯をつけ、全身に幾重もの古傷を刻んだ重甲冑の男——『黒の天秤』の幹部、ギルバートだった。彼は恐怖に怯える部下たちを手で制し、血塗れのルシアンを値踏みするようにじっと見据える。
「噂に聞く、教団が隠蔽した『大罪の実験体』の生き残りか。その狂気、その肉体……確かにただのガキではなさそうだ」
「お前の仲間になるつもりはない」
ルシアンはギルバートの視線を冷たく撥ね付ける。
「僕の目的は教団を潰し、連中の首を刈ることだけだ。お前たちの情報と戦力を、僕が利用してやる。……文句があるなら、ここで全員殺して先に進む」
ギルバートは一瞬呆気にとられたように目を見張り、次の瞬間、腹の底から響くような野太い笑い声を上げた。
「はははッ! 素晴らしい! 清廉潔白な聖人君子気取りの連中ばかりのこの地下で、ここまで剥き出しの殺意を持ったクソガキとはな!」
ギルバートは不敵な笑みを浮かべ、ルシアンの目の前に歩み寄った。
「いいだろう。我が『黒の天秤』も、教団の首を落とすためなら悪魔でも、化け物でも喜んで利用する。お前が俺たちを利用するように、俺たちもその不滅の肉体を『対教団の最前線の盾』として使わせてもらう」
互いに信頼などゼロ。
相手を道具として使い潰すことだけを前提とした、歪で冷徹な利害の一致。
(……これでいい)
ルシアンは心の底で小さく呟いた。
温かい言葉も、連帯の絆もいらない。ただ目的のためだけに繋がり、必要なくなれば切り捨てる。それこそが、今のルシアンにふさわしい関係だった。
こうして、怪物は巨大な闇の組織『黒の天秤』の深部へと足を踏み入れた。
復讐と殺戮の歯車が、音を立てて回り始める——。




