第三十話 巡礼の果て
雨が降り続いていた。
灰色の雲が垂れ込め、枯れた大地を冷たく濡らしている。
水上都市レヴィアの崩壊から数週間。
新聞や教団の回覧板には、「大罪者レヴィアタンの不審な潜伏」と「過激派レジスタンスの全滅」という、都合よく捏造された事実だけが短く記載されていた。そこに散っていったガルドやレイラたちの名前など、どこにもない。彼らの生きた証も、交わした絆も、歴史の塵として綺麗に吹き飛ばされていた。
ボロボロの黒いローブを羽織り、ぬかるんだ街道を歩く人影があった。ルシアンだ。
「ハぁ……っ、ぁ……」
一歩踏み出すたび、膝の関節が嫌な音を立てて砕け、その瞬間に血と肉が強引に蠢いて骨を繋ぎ直す。
激痛。
全身の神経が焼き切れるような苦痛が、呼吸をするごとに襲いかかる。だが、ルシアンの表情には眉一つ動かす気配すらない。瞳は完全に光を失い、濁った底なしの虚無だけが広がっていた。
「……ッ」
胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。
肉体の損傷による痛みではない。かつてレヴィアの地下で、ガルドが差し出してきた温かい手や、レイラが見せた無邪気な笑顔の幻影が、脳裏を掠めたからだ。
ルシアンは迷わず、短剣を己の左太ももへと深々と突き立てた。
グチィッ……!!
「……くっ、ふ……」
溢れ出す鮮血と、脳を刺す純粋な物理的激痛が、甘っちょろい傷傷しさを綺麗に塗り潰していく。
(……要らない)
そんなものは、この理不尽な世界を生きていく上で邪魔なゴミでしかない。
絆を持てば、奪われたときに絶望する。
心を開けば、裏切られ、踏みにじられたときに狂う。
ならば最初から、何も持たなければいい。
誰とも関わらず、誰も信じず、ただ自分を傷つけ、血を流し、この歪んだ存在を保ち続ければいい。
ふと、街道の先から馬車の破砕音と、人間の怒号が聞こえてきた。
「助けてくれ! 教団の兵隊だ……っ!」
「静かにしろ異端め! 聖導教団の意に沿わぬ者は、ここで首を撥ねる!」
旅の商人らしき親子が、教団の巡回兵たちに追い詰められ、泥の中に組み敷かれていた。小さな子どもが恐怖で泣き叫び、親が身を挺して庇おうとしている。
かつてのルシアンなら、あるいはレヴィアでの日々を過ごす前のルシアンなら、ほんの気まぐれで手を貸したかもしれない。
だが。
ルシアンは足すら止めなかった。
「あ……おい、そこの君! 助けてくれ……ッ!」
親がすがるような目でルシアンを見上げ、悲痛な叫びをあげる。
ルシアンはその視線を冷たく一瞥し、ただ黙って通り過ぎようとした。
「無視か! こいつも異端の類か!? 構わん、まとめて斬り捨てろ!」
教団兵の一人が痺れを切らし、長剣を構えてルシアンの背後から襲いかかる。
白刃がルシアンの首筋を目がけて振り下ろされた。
ドシュッ!!
「……邪魔だ」
ルシアンの首が半ばまで深く切り裂かれ、大量の血が噴き出す。
だが、剣を振るった教団兵が目を見開いたのは、次の瞬間だった。
首の切断面から無数の血の糸と骨の芽が爆発的に吹き出し、教団兵の長剣を肉体の中に巻き込んで強奪・破砕したのだ。
「ひっ……!? な、なんだこの化け物は……っ!?」
「僕の視界に入るな」
ルシアンは首を強引に修復しながら振り返り、首から吹き出す過剰な血を強靭な針へと変形させて放った。
ズササササッ!!
教団兵たちの胸を、顔面を、血の針が一瞬で穿つ。
数秒前まで威張っていた兵士たちは、悲鳴をあげる暇もなく、血まみれの泥人形となって地面へ崩れ落ちた。
「あ……あぁ……っ」
生き残った親子が、救われた安堵ではなく、目の前の「怪物」に対する狂おしいほどの恐怖でガタガタと震え出す。
「助けて……喰わないで……っ!」
泣き叫ぶ子どもを抱きかかえ、親は蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
感謝も、救いもない。
残されたのは、冷たい雨と、惨殺された教団兵の死体だけ。
ルシアンは返り血を拭うことすらせず、再び歩き出した。
彼らが自分を「化け物」として恐れ、蔑む視線すらも、今のルシアンにとっては心地よかった。それこそが、この世界における正しい自分の姿なのだから。
(待っていろ、ヴァルター……教団……そして、大罪ども)
自らの右腕をもう一度ひねり潰し、痛みを噛み締める。
【傲慢】の宿主ルシアン。
心を完全に殺し、不滅の激痛だけを纏った怪物は、教団の本拠地、そして次なる大罪が潜む『中央大都市』を目指し、暗い雨の中へと消えていった。
【第一部:水底のレヴィア編 完】
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