第二十九話 泥と痛みの果て
「『我が至高なる存在』——ッ!」
ルシアンの体内で、肉体と魂を強制的に繋ぎ止める不気味な概念が限界を超えて暴走を始めた。
ぐちゃり、と悍ましい音が響く。
引き裂かれた右腕の肉と断裂した血管が、膨大な血を撒き散らしながら瞬時に再構築される。だが、それは元通りの腕ではない。骨が歪に突出し、筋肉が捻じれ、自傷による血を纏った『血骨の杭』へと変貌を遂げていた。
(痛い……脳が、焼き切れる……っ!)
神経を直撃する拷問のような激痛。だが、ルシアンはその痛みを全身で受け止め、己の「存在」を世界に刻み付ける糧とした。
「はは……あはははッ!!」
ルシアンの唇から、狂気じみた笑いが漏れ出る。
ガルドたちの死体、血みどろの泥、散らばった骨の欠片。その絶望の真ん中で、ルシアンは自らの左胸——肋骨の隙間に向け、右腕の『血骨の杭』を深々と突き立てた。
ブスリッ!!
「なっ……!?」
ヴァルターの眼光が、初めて僅かに揺れた。
レヴィアタンもまた、その常軌を逸した行いに瑠璃色の瞳を見開く。
「自分の心臓近くを貫いただと……!?」
自傷による極限の破壊。それと同時に解放された猛烈な修復エネルギーが、爆発的な圧力となってルシアンの体内から外へと吹き荒れた。
ドバアアアアッ!!!!
ルシアンの胸孔から噴き出したのは、修復の概念を帯びた「呪われた過剰血液」の波だった。
それはレヴィアタンの『羨望される世界』の掠奪領域を力任せに押し潰し、周囲の空間ごと圧迫する。
「不快……不快よッ! なんなのよその気持ち悪い力はッ!!」
レヴィアタンが金切り声を上げ、掠奪の手を伸ばす。だが、ルシアンの血は強奪された瞬間、彼女の体内で過剰な『自己修復』を始めようと肉体を侵食し始めた。他者の存在を拒絶する【傲慢】の絶対性。それが【嫉嫉】の掠奪すらも毒となって蝕む。
「くっ……! 体内から……肉が弾け跳ぶ……!?」
レヴィアタンが苦悶の表情を浮かべ、たまらず後退する。
その隙を逃さず、ルシアンは血の波を地面へと叩きつけ、崩壊寸前だった地下水路の天井を真下から破壊した。
ズドドドドドンッ!!!!!
「しまっ——」
ヴァルターが聖剣を振るうより早く、大量の湖水と巨大な瓦礫の群れが、三人の頭上から爆発的に雪崩れ込んできた。水上都市レヴィアの底が、ついに完全に底抜けしたのだ。
「ヴァルター! 一旦退くわよ! こんな泥鼠に付き合ってられないわ!」
「……不覚」
レヴィアタンが激流に呑み込まれながら撤退の術式を展開し、ヴァルターもまた崩れ去る水路の奥へとバックステップで跳び退く。
濁流に呑み込まれ、暗闇へと沈んでいくルシアン。
視界が真っ暗に染まる中、ルシアンの手には、死んだガルドの身体から引きちぎられた、血塗れのレジスタンスのバンダナが握られていた。
助けるためじゃない。
忘れるためでもない。
ただ、「関わればどうなるか」を生涯忘れないための、冷たい戒めとして。
(誰も救わない……誰も信じない……)
冷たい水底で、ルシアンの意識は深い闇へと落ちていった。
数日後。
水上都市レヴィアから遠く離れた、枯れた荒野の泥溜まり。
「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……!」
血と泥を吐き出しながら、少女のような華奢な影が蠢いた。
ルシアンだった。
全身の骨は砕け、皮膚は爛れ、泥に塗れた姿は人間のそれとは到底呼べない。それでも、体内を絶え間なく巡る『我が至高なる存在』の激痛が、ルシアンを死ぬことすら許さずに引き戻す。
ゆっくりと体を起こす。
周囲には誰もいない。ガルドも、レイラも、レジスタンスの誰ひとりとして、ここにはいない。全員、あの水底で悲惨な肉塊となって捨て置かれたのだ。
ルシアンは握りしめていた血塗れのバンダナを泥の中に叩きつけると、容赦なく自らの足で踏みにじった。
「……行くぞ」
声から一切の感情が消えていた。
残ったのは、世界に対する冷酷な虚無と、自らを苛み続ける不滅の痛みだけ。
聖導教団を潰すか。
それとも、次の「大罪」を狩るか。
【傲慢】の宿主となった哀れな怪物は、たった一人で、さらなる地獄の深淵へと足を踏み出した。




