第二話 黒い森と歪んだ希望
崩れかけた館をあとにした僕は、あてもなく歩き続けていた。
背後に広がるのは、血と焦土と化したかつての拠点だ。振り返る勇気なんてなかった。思い出すだけで、首を絞められるような息苦しさと、全身の皮膚が引きちぎられるような幻痛が蘇ってくる。
視界を覆うのは、紫色の不気味な霧が立ち込める『黒の樹海』だった。
陽の光を遮るほどに鬱蒼と茂る樹木。その幹や枝は歪にねじ曲がり、まるで絶叫する人間の姿のようにも見える。
「はぁ、はぁ……っ」
前世ではただの高校生だった体だ。
いくら『我が至高なる存在』で傷が癒えるといっても、疲労や空腹、そして喉の渇きまでもが消えてくれるわけではない。重い足を引きずりながら、ぬかるんだ土を踏みしめる。
ガサ、と音がした。
「……ッ!?」
僕は足を止め、茂みを睨みつける。
生唾を飲み込む。冷や汗が背中を伝い落ちた。
直後、樹木をなぎ倒しながら現れたのは、巨大な四つ足の異形だった。
体長は三メートルを超えている。狼に似た骨格をしているが、毛皮はなく、むき出しの赤い筋肉と無数の目が蠢いている。口からは粘着質のだ液が垂れ落ち、鼻をつく腐臭が漂っていた。
魔物だ。
ゲームや小説でしか見たことがなかった存在が、生々しい肉の感触と圧倒的な殺気を伴って目の前に立っている。
「グルルル……」
「あ、ぁ……」
逃げなきゃいけない。そう頭ではわかっているのに、恐怖で膝がガクガクと震えて動かない。
前世の僕なら、こんな化け物と対峙した時点で卒倒していただろう。
魔物が地を蹴った。
次の瞬間には、視界いっぱいに開かれた巨大な顎が迫っていた。
バリ、という嫌な音が響く。
「がああああああッ!!!!」
右肩から腕にかけてが、丸ごと喰いちぎられた。
衝撃と激痛が遅れてやってくる。肩の断面から勢いよく血が噴き出し、視界がぐらりと揺れた。
痛い痛い痛い痛い痛い!!
肩が、腕がない! 熱い鉄を押し当てられたような、全身の神経が焼き切れるような激痛!!
僕は地面に転がり、自分の血で泥を染めながらのたうち回った。
魔物は僕の腕を豪快に噛み砕き、満足そうに喉を鳴らしている。
(死ぬ、また死ぬ……!! いやだ、痛い、助けてくれ!!)
恐怖で涙と鼻水が溢れ出る。
だが、僕の心からの悲鳴とは裏腹に、体の奥底からあの冷徹な『何か』が立ち上がった。
——我が肉体を喰らうなど、分を弁えぬ身の程知らずが。
ユニークスキルが容赦なく発動する。
グチャグチャ、と不気味な咀嚼音が響いた。
魔物の胎内、そして口内に残っていた僕の腕の肉片と骨が、意思を持ったように弾け飛び、魔物の内臓と肉を突き破って僕の肩へと飛来する。
「ギャオオンッ!?」
魔物が悲鳴を上げた。
内側から肉を破られた魔物の口や腹から、大量の血と内臓が撒き散らされる。
そして、僕の肩。
肉の繊維と砕けた骨が強引に絡み合い、激しい摩擦熱のような痛みを伴って再生していく。皮ふが引き伸ばされ、神経が強引に縫い合わされる激痛に、僕は白目を剥きそうになった。
「うぐぁぁぁぁぁッ……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
再生が終わったとき、僕の右腕は何事もなかったかのように元通りになっていた。
一方、内側から肉体を破壊された魔物は、大量の血の海の中で体を痙攣させ、やがて動かなくなった。
自分が倒したわけじゃない。
ただ、僕の『死ねない能力』が、勝手に相手を巻き込んで再生しただけだ。
「はは……なんだよ、これ……」
僕は血に濡れた自分の右腕を見つめる。
指はちゃんと動く。傷ひとつない。けれど、さっき腕を食いちぎられた痛みの記憶は、しっかりと脳に刻み込まれている。
死ぬことすら許されず、壊れては元に戻るだけの肉体。
僕は魔物の死骸から溢れ出る血の臭いに耐えかね、その場に崩れ落ちて嘔吐した。
吐くものがなくなっても、胃液を吐き出し続ける。
こんな世界で、僕はこれからどうやって生きていけばいい。
「ねえ、そこの君。大丈夫?」
ふと、頭の上から透き通った声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、木の枝の上にひとりの少女が座っていた。
風に揺れる銀色の髪に、吸い込まれそうな紫色の瞳。背中には小さな弓を背負い、綺麗な旅装を身に纏っている。
彼女は僕の全身の返り血と、倒れた巨大な魔物を見比べ、少しだけ目を丸くしていた。
「ひとりでその魔物を倒したの……? すごいね」
少女はトッと軽やかに枝から飛び降り、僕に向かって手を差し伸べた。
その瞳には、恐怖や偏見ではなく、純粋な関心と優しさが宿っているように見えた。
——この出会いが、僕の惨劇の始まりに過ぎないとも知らずに。




