第一話 残された者
血の匂いが、いつまでも鼻腔から離れなかった。
散乱した肉片と、赤黒く染まった床。
ここにいたのは、昨日まで笑顔を交わしていた人間たちだ。侍女のアイリスも、護衛として僕の盾になってくれた騎士たちも、全員が形のない肉の塊へと変えられていた。
僕は自分の腕を見る。
あんなにもグチャグチャに引き裂かれ、首を跳ね飛ばされたというのに、今の肉体には一筋の傷すらなかった。
肌は滑らかで、呼吸も正常で、心臓は規則正しく脈打っている。
まるで、あの凄惨な虐殺がただの悪夢だったかのように。
——違う。悪夢なのは、これからだ。
「あはは……」
乾いた笑い声が、静まり返った館に虚しく響いた。
前世の記憶にある日本の平和な教室。友達とふざけ合った放課後。あんな温かい世界にいた僕が、なぜこんな場所で、死ぬことすら許されずに生き残っているのか。
授けられた『七つの大罪』——『傲慢』の権能。
名前だけを聞けば、世界を意のままに操る無敵の存在のように思えるだろう。だが、実態は違った。
僕にあるのは、どれほど肉体が破壊されようとも強制的に修復されるという、ただの悪質な再生能力だけだ。
攻撃魔法が使えるわけでもなければ、剣の腕が立つわけでもない。ただ人並み外れて頑丈な肉体に、壊れては直るを繰り返す不死の呪いが張り付いているだけ。
そして何より、肉体が再生する瞬間の激痛は、脳髄を焼き切るほどに鮮烈だった。
死ねない。ただ痛みを味わい続け、大切な人たちが目の前で惨殺される光景を見せつけられる。それが、僕に与えられた『傲慢』の罰ゲームのような力だった。
「ルシアン様……お逃げ……」
脳裏に、アイリスの最期の声が蘇る。
逃げろと言われても、どこへ行けばいい。この世界は、僕のような人間にとってあまりにも残酷すぎた。
外から、遠くで不気味な地響きが聞こえてきた。
あれはおそらく、他の『七つの大罪』の誰かが暴れている音だ。
この世界には、僕のような『傲慢』の他にも六人の大罪が存在している。誰もが理不尽なまでのユニークスキルを持ち、国を滅ぼし、人間を虫けらのように踏みにじる化け物たち。
いつか彼らの気まぐれに巻き込まれれば、僕はまた首を跳ねられ、内臓を引きずり出され、終わりなき激痛の底で狂い続けることになるだろう。
それでも、僕は立ち上がらなければならなかった。
血塗れの床に手をつき、震える足を無理やり制御して、僕は一歩を踏み出す。
生きたいわけじゃない。
けれど、死ぬことができないのなら、この地獄のような世界で、僕はどこへ向かうべきなのか。
誰もいない廊下を歩きながら、僕は自分の胸の奥底でうごめく、冷たくて黒い感情に気づいていた。
仲間を失った悲しみや恐怖が、その冷たさによって少しずつ塗りつぶされていく。
『傲慢』のスキルが、僕の人間としての心を少しずつ侵食し、感情を麻痺させていくのがわかった。
いつか完全に心が壊れ、ただの傲慢な化け物に行き着くのか、それとも——。
血の足跡を残しながら、僕は崩れかけた館をあとにした。
残酷な異世界の空の下、絶望に満ちた旅が、静かに始まろうとしていた。




