プロローグ 絶対者の痛み
肉が裂ける音というのは、驚くほどあっけないものだった。
「ルシアン様、お逃げ……っ!」
そう叫んだ少女の頭部が、次の瞬間には爆竹のように弾け飛んでいた。
ずっと自分の身の回りを世話してくれていた侍女のアイリス。優しくて、少しおっちょこちょいで、毎朝焼きたてのパンを運んでくれていた彼女の頭蓋骨が砕け、生暖かい脳漿と血が僕の顔面にべっとりと吹きかかる。鉄の匂いが強烈に鼻を突いた。
嘘だろ、となんとか声を絞り出そうとしたが、息がうまく吸えない。
前世の僕は、どこにでもいる普通の高校生だった。
学校に行って、友達とくだらない話をして、部活の帰りに買い食いをするような平穏な日常。それが信号無視のトラックに跳ねられ、あっけなく終わりを迎えた。
目覚めたとき、僕は異世界にいた。しかも、世界を支配する絶対的な力の一角、『七つの大罪』の『傲慢』の権能を宿す存在として転生していたはずだった。
けれど、現実はファンタジー小説のように甘くはなかった。
「ハハッ! なんだその顔は、『傲慢』の坊っちゃん! お前がこの世界で一番偉いんじゃないのかよ!?」
狂気に満ちた笑みを浮かべた男が、返り血で濡れた巨大な大斧を振り上げる。敵対勢力が送り込んできた凄腕の刺客だった。
刃が空を切り裂く重低音が響き、そのまま僕の胴体へ一直線に振り下ろされた。
肉が断ち切られ、骨が砕け散る激しい感触が全身を駆け抜ける。
「あ、が……ぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
視界が一瞬で真っ赤に染まった。
経験したことのないあまりの激痛に、叫び声すら途中でのどに詰まる。
肋骨が粉々に粉砕され、内臓が刃によってズタズタに引き裂かれていく。腹部から、温かく粘り気のある自分自身の血と腸が地面へとぶち撒かれていくのが見えた。激痛で頭が破裂しそうで、視界が明滅を繰り返し、体中の筋肉が勝手に痙攣を始める。
「呆気ねえな! 護衛の騎士たちも全滅、お前もここで終わりだ!」
男が不快な笑い声をあげながら、僕の腹から大斧を引き抜いた。ドロリと溢れ出る僕の内臓。
視界の端には、昨日まで一緒に笑い合っていた騎士たちの無残な姿があった。ある者は天井から首を吊るされ、ある者は全身を押し潰されて原型を留めない肉塊に変えられている。
死ぬ。こんなの絶対に死ぬ。痛い、痛い、助けてくれ、誰か助けてくれ——。
恐怖と絶望で意識が遠のきかけたその瞬間。
僕の心の奥底、魂の最も深い場所から、ドス黒く冷酷な『何か』が急速に湧き上がってきた。
——我が滅びるだと?
——虫ケラ風情が振るう刃ごときで、この我が絶命するなど……笑止千万。
ユニークスキル、『我が至高なる存在』。
地面にぶち撒けられていた僕の内臓が、まるで意思を持つ生き物のように蠢き始めた。
逆再生される映像のように、地面の土や血を巻き込みながら体内へと急速に引き戻されていく。砕けた骨が強引に噛み合い、断裂した筋肉と皮膚がグチャグチャと不気味な音を立てて結合していく。
「あ、がぁっ……ぐぁああああッ!!」
死なない。けれど、修復されていくその工程の激痛すらも、ダイレクトに脳を焼き切る。
肉体が引きちぎられた瞬間の痛みが、巻き戻される中で何度も何度も全身の神経を苛んでいく。痛みから逃げるために気絶することすら許されない。
「ひっ……なんだそのバケモノは!? 首を落とせば流石に死ぬか!?」
目の前の惨状に恐怖した男が、半狂乱になりながら僕の首を目掛けて大斧を横一文字に振るった。
ガツン、と硬い骨が切断される手応え。
視界が急激に回転し、空を舞った。地面に転がった僕の目の前に、首から血を豪快に噴き出して倒れ込む自分自身の体が映る。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、息ができない、頭が痛い、体が熱い、痛い痛い痛い痛い!!
だが、転がった僕の首の切断面から、無数の赤い肉の繊維が糸のように伸びた。
その繊維が胴体と繋がり、ズズズと音を立てて首を強力に引っ張り戻す。首と胴体が合体し、瞬く間に皮膚の縫い目が消えていった。
「ひぃっ……ひああああああッ!!」
男は己が引き起こしたあまりの怪奇現象に腰を抜かし、股間を濡らしながらなりふり構わず逃げ出していった。
静まり返った惨劇の館。
生き残ったのは、地面に広がる大量の血と、自分自身の返り血で全身を黒く染めた僕ひとりだけだった。
「はぁ……はぁ……っ、う、嘔吐……っ」
首が繋がり、腹の傷が完全に塞がっても、全身を苛む激痛の余韻が消えることはない。
そしてそれ以上に、目の前で無残に殺されたアイリスたちの姿が、焼きついたように脳裏から離れなかった。
僕には、相手を一瞬で吹き飛ばすような強い攻撃魔法もない。鋭い剣技もない。
ただ『どんな激痛を味わおうと、死ぬことだけが許されない』という、呪いのような能力があるだけだ。
「あはっ……あははは……っ」
血の海の中で、僕は弱々しく笑った。
前世の倫理観を残したままの僕の精神は、終わらない激痛と圧倒的な絶望の中で、ゆっくりと、けれど確実に壊れ始めていた。
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