第二話:昨日の敵は、今日の失業者
空腹という感覚は、ときに勇者よりも強大な敵となる。
茶髪の三つ編みを揺らし、焦げたベレー帽をかぶり直しながら、私は足を引きずっていた。
マルグリット村から続く街道は、戦争の爪痕か、それともただの手入れ不足か、深く荒れた土が私の足を容赦なく飲み込もうとする。
「……もう、ダメかも」
最後の一言が、喉の奥で消えた。
あの大爆発で、私の人生は完全にリセットされた。
家も、貯金も、祖母から受け継いだ大切な調合器具も、すべてがあのレシピ一つで灰になった。
村人たちの罵声が耳に残っている。
厄介払いという言葉が、今の私にはあまりにも重い。
今の私を支えているのは、祖母の形見である身の丈ほどもある錬金術師の杖と、空っぽの胃袋だけだ。
……ぐうぅぅぅ。
森の静寂に、情けない音が高らかに響いた。
食べられる野草を探して森の奥へ足を踏み入れたのは、単なる悪あがきだった。
錬金術の知識があっても、腹を満たす食材を見つける知識がなければ、ただの無力な少女だ。
「あれ?」
森の奥、木々がわずかに開けた場所から、異様な音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、と土を掘り返すような音。私は反射的に身を隠し、草むらを慎重に掻き分ける。
そこにいたのは――。
「えっ……ウソでしょ?」
視線の先にいたのは、魔王軍の漆黒の鎧を纏った巨漢だった。
ただし、その鎧はあちこちがひしゃげ、ボロボロになっている。
さらに、その巨漢が手に持っているのは、魔王軍の鋭利な斧ではなく、使い古された農具の鍬だった。
オークだ。しかも、かなり立派な体躯をしていた。
背筋が凍る。
終戦を迎えたとはいえ、本能的にオークは戦うべき敵だと脳が警鐘を鳴らす。私は震える手で、祖母の杖を強く握りしめた。
オークは大きな溜息をつくと、また鍬を振るった。けれど、その力は弱々しい。
あろうことか、そのオークもまた、私と同じように盛大に腹を鳴らしたのだ。
「ぐうぅぅ……」
その悲哀に満ちた音を聞いた瞬間、なぜか私の緊張がプツリと切れた。
なんだ、この光景。
人間と魔物の境界線が、お互いの空腹によって塗りつぶされていく。
かつての宿敵同士が、いまや同じ食えない困窮者として、この森の隅で肩を並べている。
私は、草むらからそっと顔を出した。
「……あの」
オークが驚いたように振り返る。その顔には殺気ではなく、ひどく間の抜けた疲労感が浮かんでいた。
「……ニンゲン、か」
「そう、ニンゲン。……あんた、お腹すいてるの?」
オーク。ゲンジロウと名乗ったその巨漢は、力なく頷いた。
彼は勇者と魔王が共倒れになったことで主戦力を失った魔王軍の、行くあてを失った失業者の一人だった。
日雇いの農業で食いつなごうとしているが、畑の土がどうしても合わないらしい。
「この土、なんだか変なんだ。いくら耕しても、植えても、何も芽が出ない」
ゲンジロウが指さした畑は、たしかに嫌な色をしていた。
私は歩み寄り、杖の先で土を少しだけすくい上げる。指先から魔力を微量に流し込み、分析する。
「……あー、なるほど。これ、ダメだわ」
「ダメ、か?」
「魔王軍の瘴気と、人間の魔法の残滓が反発し合ってる。土の中で戦争が続いてるみたいなものよ。これじゃ、何百年経っても芽が出るわけがない」
ゲンジロウは絶望に打ちひしがれた顔をした。
だが、私の中にふつふつと湧き上がるものがあった。
……錬金術師としての、誇り?それとも、ただの食い意地か?
「ねえ、あんた。干し肉、持ってるんでしょ?」
「……少しだけ、ある」
「それを全部くれるなら、その土、私が救ってあげる。……錬金術でね」
これが、私の旅の二歩目。
大爆発を引き起こした悪意あるレシピの代わりに、私は自分の中に眠る祖母の知識を呼び起こした。
ゲンジロウが差し出した干し肉は、岩のように硬かったが、今の私にとっては至宝に等しかった。
私はそれを少しずつ、噛みしめるようにして喉へ流し込む。横目でちらりと見れば、ゲンジロウもまた、大きな手で無骨な干し肉をちぎり、愛おしそうに口へ運んでいた。
「……美味いか?」
「ええ、最高よ。今まで食べたものの中で一番かもしれないわ」
「そうか、それは良かった」
彼は満足そうに目を細めると、大きな体躯を揺らして畑の方を眺めた。そこには、ただ灰色の土が広がっているだけだ。かつての魔王軍と人間の戦い。その余波で吹き荒れた魔法の嵐が、この土地からすべての生命力を奪い去ってしまった。
「よし、やるわよ」
私は干し肉を飲み込み、立ち上がった。祖母の杖を杖代わりに地面に突き立て、深呼吸をする。
錬金術師にとって、土壌の浄化は基本中の基本だ。
だが、今の私には専門の器具も、調合用の魔力触媒もない。あるのは、この錆びついた古い鍋と、ゲンジロウが戦場で拾い集めた魔力鉱石の欠片だけ。
「ゲンジロウ、その鎧の破片を少し貸して。あと、湧き水の汲み置きと、その辺に生えてる『苦い草』を根こそぎ持ってきて」
私の指示に、オークは黙って従った。彼は戦士の血を引いているせいか、指示を出すと即座に、しかも正確に動いてくれる。
私は鍋を焚き火にかけ、即興の工房を設営した。
戦時中の魔力汚染を取り除くための『還元液』を作る。
魔力鉱石を砕き、不純物を取り除く。本来なら精製器を通すべきだが、今の私には杖の先端に流し込む微細な魔力操作だけが頼りだ。
「熱い……!」
杖を通じて鍋の中に直接魔力を流し込む。腕が痺れるような感覚がある。一歩間違えればこの鍋ごと爆発するかもしれない。
村の建物を吹き飛ばした時の記憶が脳裏をよぎり、指先が小さく震えた。
(大丈夫。今回は壊すためじゃない。これは育てるための調合よ)
私は自分に言い聞かせる。
祖母の声が聞こえた気がした。
『錬金術は、誰かのために使いなさい』
鍋の中の液体が、どす黒い紫色から、透き通った淡い緑色へと変化していく。
いい香りだ。
森の土の匂い、雨上がりの匂い。それらが混ざり合い、生命の息吹へと還元されていく。
「……できた」
私は鍋を手に取り、ゆっくりと畑へ歩み寄る。そして、祈るようにそれを土へと注いだ。
――ジュワッ。
音を立てて液体が土に浸透していく。
次の瞬間だった。乾燥しきっていた大地が、まるで呼吸を取り戻したかのように、ふわりと隆起した。
「おい、これ……!」
「静かに、まだよ」
私の錬金術は、ただ中和するだけではない。ゲンジロウの熱心な世話で、すでに土壌には微かな命の芽吹きが蓄積されていた。
そこに還元液が栄養と循環の道筋を作ったのだ。
土の中から、力強い緑の芽が、一斉に顔を出した。
一分、二分……目に見える速さで、それは大きく、たくましく成長していく。かつて戦争で焦土と化した場所で、今、生命が新たな歴史を刻み始めている。
「……芽が出た」
ゲンジロウの大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
オークが泣くなんて聞いたことがないけれど、今の彼にはそんなことどうでもいい。私たちは並んで、その小さな畑を見つめ続けた。
それからの宴は、一生忘れられないものになった。
収穫したての芋を焚き火で焼く。ホクホクとした湯気が夜の森に立ち上る。
元魔王軍のオークと、村を追われた人間の錬金術師。
本来なら剣を交えていたはずの二人が、ただの芋を分け合い、笑い合う。
「エリン、お前はすごいな」
「別に。あんたが手入れしてたからよ、ゲンジロウ」
腹を満たし、心まで温かくなった翌朝。
旅立ちの時が訪れた。
「俺はここに残る。開墾したこの土地で、立派な芋を育ててみせるよ」
「ええ。きっと美味しい芋が育つわ」
ゲンジロウは大きな麻袋に、収穫した芋を詰め込んで差し出した。重い。だが、今の私にとっては、これがなによりの路銀だ。
「そうだ、エリン。お前が探しているその旅人だが……」
ゲンジロウは、森の獣たちから聞いた情報を教えてくれた。
数日前、森の近くを通りかかった行商人が、怪しげな薬のレシピを自慢げに振り回していたらしい。
その行商人は、魔物たちに怯えることもなく、むしろ「これからは錬金術の時代だ!」と声を上げていたという。
「西へ向かった。サンズグリーズ鉄道が敷かれる予定の、東方最大の商業都市『ベル・アーク』へな」
ベル・アーク。東方復興の最前線であり、数多の錬金術師が集まる街。
私の追うべき敵は、そこにいる。
「ありがとう、ゲンジロウ。この芋、絶対に無駄にしないから」
「ああ。またいつか、俺の作った芋を食べに来てくれ」
私は重い麻袋を背負い、杖を握り直す。
空腹はもうない。私の腹には、昨夜食べた焼き芋の温かさと、ゲンジロウという初めての友達から貰った勇気が詰まっている。
私は西の空を見上げた。
鉄道の汽笛はまだ聞こえない。けれど、復興へと向かう世界は、ゆっくりと、しかし確実に動き出している。
エリン・アーケインの錬金術師としての本当の旅は、ここから始まる。
次に見つけるのは、レシピの嘘か、それとも本当の技術か。
私は大きく背伸びをして、力強く歩き出した。




