第一章⑥ 一週間前の総司令部
ソフィーとマクシムがトゥーロンへ向かっていた裏で、総司令部では何が起きていたか。
曇天の影が重く垂れ込め、海風にかすかに震える窓硝子が低い音を響かせていた。
ここはブレスト城。総司令部の中枢にあたる大元帥の執務室。
重厚な机を囲むように、イザベル、ルソー、アルフォンスの三人が腰を据えていた。
エリオットの不在を埋めるべく、彼らはこれからの方針を巡って議論を続けている。
「エリオットはまだ回復しないのか?」
腕を組み、苛立ちを隠さぬ声音で問うのはルソーだった。
「大元帥は、倒れたあの日から熱が一向に下がりません」
アルフォンスは冷静に応じる。書類の束を机に並べながら、その端正な横顔には陰りが差していた。
「医師によれば、ただの風邪ではないそうです。恐らく心の問題かと。……あの真面目なお方が職務を放棄するなど、本来あり得ないのですが」
「戦乱続きだと、どんな強い奴でも壊れるぞ」
ルソーは鼻を鳴らし、椅子の背に深く身を投げかけた。
「壊れないやつは……よほど戦を愛してるか、人間じゃねえか、どっちかだ」
「……いまさら自己紹介か?」
イザベルがニヤリと笑って鋭く切り返すと室内にわずかに緊張が走る。
「うるせーな!」
即座に返すルソーの声音にいつもの血気と照れが入り混じった。
「エリオットが回復しなければ、私達もブレストに留まるほかないわね」
イザベルは机上の地図を見下ろしながら冷徹に言葉を継いだ。
「けど、いつまでもパリに残した連中を少人数で働かせるわけにもいかない。こちらは書記官が五人、我々三人……そうだ、ベルリオーズもいた。なら書記官は全部で六人か。書記官は一人で充分だ、五人はパリに帰すとしよう。アルフォンス、人選はあなたに任せる」
「承知いたしました!」
即座に背筋を正したアルフォンスは、力強く答えた。
「では、ベルリオーズくんをこちらに残します!」
「……お前ら、そんなに仲良かったか?」
ルソーが片眉を上げ、半ば呆れたように口を挟む。
「司令官と参謀本部の連中も、二人ずつ残す方向でいい?」
イザベルは視線を鋭く巡らせながら提案を続けた。
「戦闘もないのなら、頭脳は二人いれば申し分ない。それに、彼らには他国との戦闘や密輸取り締まりといった職務もある。暫くはそちらに集中させるためにもパリに戻す。……異論はあるかしら?」
「承知いたしました」
アルフォンスは即座に返答し、背筋を正す。
「異論はないぜ」
ルソーも腕を組み、短くうなずいた。
イザベルはちらとルソーを見やり、わざとらしく問いを投げる。
「ユルリッシュ、君はどうしたい? このまま他国との戦闘に繰り出してもいいし、ここに残っても構わないけど」
「なんだ、やけに素直だな。まあいい、緊急を要するからな」
ルソーは鼻を鳴らし、椅子にもたれかかった。
「オレはエリオットがちゃんと自分の足で立つまで見守るぜ。それに、オレの部隊一つでも残せば、ブレストは無敵の要塞だ」
「……もともとブレスト城は要塞として十分な出来なんだけど。まあいい、いちいち突っ込んでいてはキリがない」
イザベルは肩をすくめ、冷めた声音で返す。
「さて、エドガー・ロジャース率いる海賊連合によって我々は厳しい戦局を迎えたものの、ブレスト鉄壁の盾作戦により無事勝利で終わらせた」
イザベルは組んだ腕をほどき、机上に置かれた報告書の山へと視線を落とした。
「ブレストに集結した各艦艇部隊の状況を確認しましょう。アルフォンス、まとめてちょうだい」
「はい!」
アルフォンスは椅子からわずかに腰を浮かせ、手元の書類を広げた。
「まず、船舶や備品の損傷状況です。海賊どもによる砲弾の雨で、甚大とは言えませんが海軍としての戦力は大きく削がれました。造船所や各専門家の監修を仰ぎつつ、修理には数か月を要する見通しです」
ルソーが腕を組み直し、短く鼻を鳴らした。
「……予想通りだな」
アルフォンスは続けた。
「次に隊員の負傷状況と死傷者についてです。各部隊の負傷者はブレスト城の医療班の尽力で徐々に回復しています。衛生状態も良好で感染症の心配もほとんどありません。ただ……」
アルフォンスは一呼吸置き、声を落とす。
「今回も多くの犠牲は避けられませんでした」
イザベルの指示により、アルフォンスがまず各部隊の集結状況を報告する。
「ブレストには、第一艦艇部隊、第二艦艇部隊、第三艦艇部隊、第五艦艇部隊、第七艦艇部隊が駐留しています。一回目の霧中戦、二回目の夜間戦後、増援要請で各部隊に小隊が追加されました」
報告書には各部隊の内訳も明記されている。
第一艦艇部隊が全三小隊。
第二艦艇部隊は二小隊、加えて隠密任務を一任された部隊もいる。
第三艦艇部隊は一小隊が補給任務を担い、第五艦艇部隊は二小隊が沿岸監視を担った。
そして海賊討伐が主な任務である第七艦艇部隊。
こちらは全三小隊がブレストに集結した。
ルソーが腕を組み、険しい表情で聞き入る。
アルフォンスは死傷者について報告を続けた。
「一回目の霧の中での海賊襲撃では、第一艦艇部隊の小隊ごとの平均死傷者は十二名、第七艦艇部隊は十三名です。霧の隙間から砲煙が立ち上り、兵士たちは互いの声を頼りに進むしかありませんでした。二回目の夜間戦では第一が十四名、第七が十五名負傷または戦死しています。増援後の部隊で人数は補われましたが、現場の緊張は変わりません。漆黒の闇に紛れた敵の動きに、小隊は懸命に応戦しました」
ルソーがふう、と息を吐く。
「なるほど。霧や夜間の不利な条件でも、よく持ちこたえたな」
アルフォンスはさらに三回目の長期戦を報告した。
「三回目は朝から夕方まで続く長期戦でした。大型戦列艦三隻に第一と第七が乗艦し、五十隻の海賊船団に接近、白兵戦を含む防衛戦に臨みました。帆が裂け、甲板は飛び散る破片と血で滑りやすくなり、兵士たちは一歩ずつ前進しながら敵を押し返しました。この戦闘で第一は一小隊あたり十八名、第七は二十名の死傷者が出ています」
イザベルは冷静に書類を見下ろす。
「では、全体での死傷者数は?」
アルフォンスは計算を示した。
「三回の戦闘を通じ、第一と第七だけで合計約二百十名の死傷者です。各小隊平均は第一が十四名、第七が十六名。他の部隊は直接戦闘が少ないため被害はわずかですが、それでも任務負担は小さくありません」
ルソーは目を細め、重みを感じさせる声でつぶやく。
「うむ……部隊人数によって、数字の重さは全然違うな。第一や第七にとっては、かなり痛手だ」
アルフォンスは頷き、衛生状態や負傷者の回復状態も補足する。
「現在、医療班の尽力で負傷者は徐々に回復傾向にあります。衛生環境も良好で、感染症の心配も少ないとのことです」
アルフォンスが報告を終えると部屋の空気にしばし沈黙が落ちた。
ルソーは椅子にもたれて低く鼻を鳴らした。
「……平均十四名と十六名か。五十から八十名規模なら持ち堪えられるだろうが、二十名規模の部隊だと現場の重みは全然違う。紙の上じゃ同じ十数名でも、体感はまるで違う。城や甲板で戦った兵士たちの苦痛や緊張は計り知れん」
イザベルは軽く眉を寄せつつも冷静に答えた。
「それでも全滅や壊滅に比べれば遥かに抑えられたわ。敵が海賊連合であったことを考えれば、むしろ幸運と言うべきでしょう」
ルソーは鼻を鳴らす。
「お前はいつもそうだな。数字で割り切って気楽かもしれんが、兵の尽力は数字の一つじゃねえ。城と甲板上で互いの声に頼り、血と火に包まれながら戦った奴らのことも称えろ」
アルフォンスは慌てて二人の間を取り持つように口を挟む。
「ですが、ルソー准将のおっしゃることも、ボナパルト副司令官の見立ても、どちらも正しいかと存じます。被害は確かに痛手ですが……ここで士気を崩すわけにはいきません」
イザベルが小さく笑みを漏らし、肩をすくめた。
「なるほど、さすがはシャトレ家。代々海軍のトップの側近を務めているだけあるな。口調まで上手く折り合いをつける」
ルソーはふん、と鼻を鳴らした。
「ま、言いたいことは言ったさ」
報告を一通り聞き終え、イザベルは指先で机を軽く叩いた。
「さて……次はランデヴェネックの件ね。アルフォンス、続けて」
アルフォンスは頷き、手元の書類に目を落とした。
「はっ。現在、第五艦艇部隊が引き続き監視・調査を行っております。現時点では不審な船舶や人物の確認はありません。ランデヴェネックは、海賊団の拠点としては機能していない様子です。第五艦艇部隊からは、今後も海上から監視を続けるとの報告を受けております」
ルソーは大きく息を吐き、肩を回した。
「まあ、奴らも一度叩かれりゃ尻尾を巻くか……だが、空いた拠点ほど厄介なものはない。誰が住み着くか分かったもんじゃねえ」
イザベルは冷静に応じる。
「同感。空白地帯ほど好事家を呼ぶものはないわ。監視は続けるように」
「承知いたしました」
イザベルは椅子にもたれ、静かに吐息を漏らす。
「海賊の脅威は一先ず遠のいたけど、ブレストの周辺が真に静穏になることはないでしょうね」




