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第一章⑤ 宿舎にて

 アニータたちと別れた後、ソフィーの足取りは自然と外へ向かっていた。庭先に目を向けると、リー・ウェンがグウェナエルと話し込んでいる。

「グウェナエルさん、感謝してますよ。わたしの馬の面倒を見てくださり。彼、すっかりあなたに懐いているのでこのまま託します」

 リーの言う「彼」とは黒い馬のことで、元はリーの愛馬だった。

 彼が偵察依頼のため遠方へ向かう間、マクシム隊の宿舎に置いていったもの。

 以来、馬の扱いに慣れたグウェナエルが世話を引き受けていた。

 ソフィーは馬を見つめ、自然と過去の記憶が蘇る。

 あの黒い馬には何度も助けられたのだ。

 直近では、ブレストでの海賊襲撃のとき。謎の男と脱走したフェルナンドを追うため、あの馬に乗って奔走したことを思い返す。体を預けるだけで、彼女を安心させてくれる相棒の存在。黒い馬の瞳にまた無言の信頼を感じた。

 ソフィーはゆっくりと馬に近づいて軽く撫でる。耳にかかるたてがみの感触と落ち着いた呼吸のリズムが、今日の慌ただしさを少しずつ溶かしていくようだった。彼女は馬のたてがみをそっと撫でながら、顔を上げてリーに微笑みかけた。

「リー、元気そうでよかった」

 リーは軽く頭を下げ、穏やかな声で応じる。

「ソフィーさん、お疲れ様です」

 彼の横で、グウェナエルが少し硬い表情でソフィーを見つめる。

「……ソフィー。隊長からフェルナンドのこと聞いた。それに、その後のお前の話も。心中察する」

 彼は具体的には語らなかったが、ソフィーはおおよその内容を理解することができた。

「お気遣いに感謝します」

 グウェナエルの声は落ち着き、少しだけ掠れたように続く。

「当たり前だ。……仲間なんだから」

「当たり前だ」の後に何か小さく呟いた言葉は聞き取れなかったが、ソフィーの胸にはじんわりと嬉しさが広がった。視線を黒い馬に戻し、ソフィーは興味を込めて尋ねる。

「ところで、このお馬さんはなんて名前なの?」

「この子の名は黒龍(ヘイロン)です。黒い龍のように力強く、夜でも風のように駆けるという意味があります」

 ソフィーはヘイロンの首元に手を添えながら口を開いた。

「龍、ドラゴンよね…?」

 リーはにっこりと微笑んだ。

「そうです。ですが、東洋の龍と西洋のドラゴンでは意味が大きく異なります」

 グウェナエルがわずかに首を傾げる。

「西洋のドラゴンは、多くの場合、災厄や試練の象徴です。力は強大ですが、人が乗り越えるべき存在として語られることが多い」

 リーはそう言って、ヘイロンのたてがみを軽く撫でた。

「一方、東洋の龍は違う。天と水を司り、人を守り、導く存在として崇められています。力だけでなく、調和と加護の象徴です」

 ソフィーはヘイロンの首元に手を添えながら、小さく頷いた。

「……確かに、この子は穏やかね」

「ええ。黒龍の名には、その意味を込めています」

 ヘイロンが静かに鼻を鳴らした。ソフィーはふと、自分の首元に触れる。銀の龍と蛇が絡み合う首飾り。

「……これも、龍?」

 リーの瞳が瞬き、すぐに熱を帯びた声を響かせる。

「おお、まさしく東洋の龍ですね! しかも、この銀細工の精巧さ。これを作った職人は相当な腕前でしょう。わたしでも、これほどの品は滅多にお目にかかれません」

 グウェナエルが腕を組み、興味深げに首をかしげる。

「ほう、そんなに高価なものか」

 彼は続けて言う。

「以前から気になってたんだ。アクセサリーに興味なさげなソフィーが、なぜ着けているのか」

 ソフィーは小さく眉をひそめ、軽くツッコミを入れる。

「……あの、一言余計では」

 だが彼女はすぐに顔を上げ、静かに説明した。

「これは大切な友人からいただいたものです。いわば、約束の証ですね。元々はその友人の物でした」

 リーは頷き、目を細めて真剣な声で言った。

「ふむ。そのような品を持っていたご友人、さぞかし立派な立場の方でしょうね。ええ。しかも、興味深い組み合わせです」

 グウェナエルが腕を組む。

「蛇もいるな」

 リーは頷いた。

「東洋において、蛇は龍を補う存在です。天を象徴する龍に対し、蛇は地や現世を象徴する。互いに力を支え合い、均衡を保つ関係です」

 ソフィーは静かに首飾りを見つめる。

「……守り合う、ってこと?」

「その通りです」

 リーは柔らかく微笑んだ。

「龍が導き、蛇が守る。二つが揃うことで、はじめて完全な調和となる」

 グウェナエルは腕を組み、しばし黙って首飾りを見つめる。

「なるほど…そういう意味があったのか」

 ソフィーは静かに頷き、胸の奥で暖かいものを感じた。

「約束の証……つまり、友人との誓いを守るための象徴ということね」

 リーは満足げに微笑む。

「その通り。単なる装飾ではない、意味を込められた品。あなたが身につけることで、龍と蛇が互いに守り合うように、あなた自身も守られ、導かれるわけです」

 リーの熱弁と解説を聞き終えたソフィーは、思わずくすくすと笑い出した。

「でもね、リー。偶然にしては、よくできた話だと思うの」

 リーは首をかしげ、少し興味深げに問いかける。

「と、いうと?」

 ソフィーは首飾りを軽く握りながら、楽しげに続ける。

「私がこれをもらった時、まだお互いほんの子供だったのよ。たしか二人で約束はした。でも、一個一個の意味や要素の解説を聞くと、とてもよくリンクした話だなって思うの」

 リーは首飾りの中央に光るアクアマリンに目を留め、柔らかく微笑む。

「なるほど、その宝石も無意味ではありませんね。アクアマリンは水の精を象徴し、航海や旅路を護る力があると伝えられています。心を清め、危険から守るお守りとしても古くから珍重されてきました。つまり、龍と蛇が財を護ると同時に、この宝石が身を守る意味を持つ。なるほど、これは非常に縁深い組み合わせです……つまり、この宝石もまた——」

 リーがさらに言葉を続けようとした、その時だった。

「長い」

 グウェナエルが一言で切り捨てる。一瞬、沈黙。リーは軽く瞬きをして、すぐに小さく頭を下げた。

「……失礼しました」

 ソフィーが思わずくすくすと笑い、グウェナエルが腕を組んでやや呆れたように笑みを浮かべた。

「なんにせよ、偶然の産物ってわけか」

 首飾りの銀細工の龍と蛇が午後の陽射しに微かに光る。

 偶然が紡いだ縁の妙と自分たちの小さな約束が、今もこうして形になっていることを実感していた。

 ヘイロンが穏やかに鼻を鳴らし、三人の間に静かに息づく時間を感じさせる。宿舎の中庭には、まだ見ぬ日々の冒険と守るべきものへの決意が満ちていた。

 ソフィーは静かに首元の銀細工を撫でた。

 龍と蛇が絡み合い、中央に輝くアクアマリンはかつての約束を守るかのように揺れている。

 冬の淡い陽光が宝石の青を柔らかく反射し、手のひらに微かな温もりを落とした。だが、胸に浮かぶ思い出は甘くはなかった。


 あの友人とはあの海岸で誓いを交わして以来、しばらく会っていない。

 久々に訪れたヴール・レ・ロズの屋敷。あの場所は、もぬけの殻で暗闇に緋色が滲んでいた。

 あれはおそらく血の痕。屋敷で何が起きたのか、ソフィーは知らない。

 ただ思い出すだけで背筋が凍り、記憶は無意識に封印されていた。

 ソフィーは首飾りを指先で軽く転がしながら小さく息をつく。


 ——ラウル、一体あなたに何があったの? なぜ、ずっと会えないままなの。


 冬空に漂う冷たい風が頬を撫で、まるで答えを持たぬ天の静寂がソフィーの問いに応えているようだった。天を象徴する銀の龍に目を留め、絡み合う蛇が宝石を守る姿にかつての約束と友情が確かにここにあることを感じ、思わず笑みが零れた。偶然にしては、あまりに見事な巡り合わせだ。

 ソフィーは冬空を見上げ、心の奥深くで呟く。

「もしあなたたちが見えるなら、答えてくれるかな」

 青い光がソフィーの手元で瞬く。首飾りのひとつひとつの造形、龍の躍動、蛇の巻きつき、アクアマリンの澄んだ輝きが、遠い過去の約束と今も心に残る友情の証であることを語っていた。

 ソフィーは首飾りを握りしめ、視線を冬空に向けたまま、心の奥で自分に問いかける。


 ——いつか、ラウルに会えるのだろうか。あの時の約束を、私たちはまだ果たせていない。


 胸の奥に確かな決意が芽生える。

 過去を振り返るだけでは、答えは見つからない。

 あの緋色の屋敷で何が起きたのか今も不明のまま。しかし、恐れや悲しみに飲まれるのではなく、真実を知る覚悟を持たなければならない。

「私が動かなければ、誰も助けられない」

 ソフィーは静かに息を吐き、肩の力を抜く。首飾りの冷たい金属の感触が心を少しだけ落ち着かせた。龍の躍動する銀細工と蛇が宝石を守る姿は、まるで自分の決意を映す鏡のように感じられた。そして、心の中でそっと誓う。

「ラウル、いつかあなたに会う時まで、私は変わらずここにいる。あなたを見つける。その時、あの約束を果たすために」

 冬空の淡い光が首飾りのアクアマリンに反射して青く輝いた。

 それは過去と未来、友情と決意が交錯する瞬間だった。

 ソフィーの瞳には、これから進むべき道が少しずつ見えていた。

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