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第十一章① ソフィーとグウェナエル

 人間とは思えないほど満身創痍で、全身は血に濡れていた。

 傷口は鋭利に裂け、肉と服の隙間から血が滴る。だが、それでも目は確かにグウェナエルのものだった。

 ソフィーの胸が強く揺れた。足が、一瞬だけ止まる。

「……グウェナエルさん……」

 ソフィーは声を震わせて名前を呼ぶ。血に染まった紺の軍服、引きずる剣。

 人間の限界を超えた存在のようにも見えた。

 彼女の背後ではジャスパーが剣を構え、いつでも斬りかかれる体勢を保っている。

 グウェナエルがソフィーの目の前まで歩み寄った瞬間——突然、膝から崩れ落ち、手をついて倒れ込んだ。掌から零れた刃の金属音が通路の石畳に甲高く響き、朝日に赤黒く照らされるその姿は痛々しくも確かな存在感を放っている。

「グウェナエルさん!」

 ソフィーは思わず駆け寄り、跪いてグウェナエルの両肩を掴んだ。ぐらりと傾いた身体を引き起こすと、荒い呼吸の合間からかすれた声が漏れる。

「……ソフィー……来てくれたんだな」

 血と泥にまみれた彼の顔。その瞳に痛みと疲労、そしてかすかな安堵が滲んでいる。

 ソフィーは言葉を失ったまま肩を支え続けた。城壁通路を抜ける冷たい夜風が血の匂いを運ぶ。戦場の喧騒の中で、ほんの一瞬だけ時が止まったようだった。

「……どうして……こんな……」

 ソフィーの声が震えた。グウェナエルは息を整えながら、途切れ途切れに答える。

「マクシムを……守るためだ。この先の螺旋階段で……兵を止めてた」

 ソフィーの胸がきつく締め付けられる。

「四人に、刺された。……全部、返したけどな……」

 ソフィーは言葉を失い、彼を支える腕に力を込める。

「ルキフェルは……屋上へ行った。止めようとは……した。でも……あいつの言葉を聞いて……信じた」

 グウェナエルの言葉にソフィーは息を呑み、目を見開く。

「……あいつを守るためにも……後から来た兵も、斬り続けた。自分の怪我は……後回しだ」

 グウェナエルの血に濡れた顔に疲労が滲む。それでも、その瞳だけは揺れていなかった。

「……そんな……ずっと……一人で……」

 ソフィーは気づけば彼の胸元に手が触れていた。確かめるように、縋るように。

 グウェナエルは地面に手をつき、かすかに笑う。

「ひでえ顔だろ。目も……あんまり見えてねえ」

 息を吐く。

「……かろうじて、お前が分かるくらいだ」

 ソフィーは喉が詰まり、言葉が出なかった。

「……いつもみたいに、診てくれねえのか?」

 その問いは冗談めいているのに、どこか頼るようで。

 ソフィーは唇を噛み、首を振る。

「……ごめんなさい。道具も……医者としての立場も……置いてきました」

 何もできない。その事実が胸を締めつける。それでも、ソフィーは顔を上げた。

「……でも」

 血まみれの彼の目をまっすぐ見つめる。

「私は……私として、ここに来ました」

 ソフィーの声は震えていた。

「怖くて……どうしていいか分からなかった」

 息が詰まる中、言葉を選ぶ。

「それでも、来ました」

 グウェナエルから視線を逸らさず紡ぐ。

「医者じゃなくて……ただの私として」

 彼女の目に涙が滲み、問いかけるように彼を見た。

「……それでも、受け入れてくれますか?」

 しばらくの沈黙。やがて、グウェナエルの表情がゆっくりと緩む。

「……ああ」

 かすれた声だったが、胸の奥に届く。

「やっと……ソフィーに会えた気がする」

 グウェナエルは血に濡れた手で地面を支えながら微かに笑った。

「それを……俺に見せてくれて、嬉しい」

 ソフィーの胸はぎゅっと熱くなる。恐怖と緊張の中で踏み出した一歩が、確かに彼に届いた瞬間だった。彼女の背後でジャスパーは剣を下ろし、二人のやり取りを静かに見守っていた。

 グウェナエルは低く息を吐き、どこか自嘲気味に笑う。

「……こんな体でも、まだ生きてるらしい」

「……聞いても、いいですか」

 ソフィーは恐る恐る言葉を選ぶ。

「あなたは……どうしたいんですか。こんなに傷だらけで……私、どうすればいいのか……」

 グウェナエルは静かにソフィーを見た。転がった剣。その目に、逃げ場のない覚悟が宿っている。

「正直に言うぞ。……死ぬつもりだった」

 ソフィーの喉がひくりと鳴る。

「兵を止めて……役目は果たした。このまま、終わらせようと思ってた」

 グウェナエルは息を吐く。

「生きるのは……正直、きつい」

「……それなのに。どうして……歩いていたんですか」

 こんな状態で。剣を引きずってまで。

 グウェナエルは一瞬、目を伏せた。そして、ほんの少しだけ表情を緩める。

「……お前の声を思い出した」

 ソフィーが息を呑む。

「『生きてほしい』って……言ってただろ」

 彼の血に濡れた目がまっすぐソフィーを捉える。

「怖くなったら……自分のところに帰ってきていいって」

 ソフィーの胸の奥で何かが熱く弾けた。

「だからな……せめて」

 グウェナエルは荒い息の合間に言葉を紡ぐ。

「お前のところに戻るまでは……生きようって思った」

 そして、彼はかすかに笑う。

「宿舎まで行くつもりだった。……でも、思ったより近くに、お前がいた。……助かったよ。こんな早く帰れるとは思わなかった」

 ソフィーの視界が滲む。血と傷だらけの姿なのに、彼の声は温かかった。

「ちゃんと……覚えててくれたんですね」

 ソフィーの声が震える。

「私の……あんな約束……」

 グウェナエルはほんの少し目を細める。

「忘れるわけないだろ。……ここまで来れた。それで十分だ」

 ソフィーはただ涙を流しながら、グウェナエルの手を握り締めた。

 言葉は出ない。感謝も、喜びも、安堵も、すべてが涙に溶けていった。

 ただ、目の前にいる彼が約束を守り、生きようとしたこと。

 その事実だけが、ソフィーの心を満たしていた。

 グウェナエルはかすかに笑って、ソフィーの頬を伝う涙を指先で拭う。

「……泣くんだな」

 彼の声には、疲れと安堵と少しの照れが混ざっていた。

「あの嵐の日さ。お前を……切り捨てようとしたのに」

 ソフィーは鼻をすすり、涙声で返した。

「……怖かったですよ。本当に、殺されるかと思いました」

「だよな」

 グウェナエルも小さく頭を下げて謝る。

「悪かった、俺の勝手で……お前を巻き込んだ」

 それ以上、言葉は続かなかった。痛みが増したのか、肩が小さく震え、呼吸が荒くなる。

 彼の様子を見て、ソフィーは迷わず彼の背後に回った。そっと腕を回し、背中から抱きしめる。

「……大丈夫です」

 ソフィーの声は震えていたが、逃げなかった。

「……怖いです」

 腕に少しだけ力の込める。

「でも……離れません」

 グウェナエルの体が一瞬だけ強張る。けれどすぐに、力の抜けた息とともに体重を預けてきた。

「……支えてくれるのか」

 かすれた声。

「俺を……?」

 ソフィーは答えず、ただ抱きしめたまま耳元に顔を寄せる。

「……ここにいます」

 それだけ囁く。二人はそのまま、城の外通路に身を寄せ合った。風の音と互いの呼吸だけが残る。

 やがて、水平線の向こうからゆっくりと朝陽が顔を出した。まだ赤く燃えるような光が城の石壁や瓦に反射し、冷えた空気がゆっくりほどけていく。

 その光が差し込んだ瞬間、グウェナエルは思わず目を見開いた。血と影で霞んでいた視界に色が戻ってくる。

「……」

 言葉を探すように、息を呑み——

「……綺麗だな」

 それだけ零した。ソフィーの目からまた涙が落ちる。

「……はい」

 小さく頷く。

「……本当に」

 彼女は、彼の背中に顔を埋めた。

「……あなたが、見られてよかった」

 朝の光が二人を包み込み、戦いの痕も、血の色も、ほんの一瞬だけ柔らかく溶かしていく。

「生きてくれて……嬉しいです」

 グウェナエルはほんの少しだけ笑った。

「……俺も」

 グウェナエルはゆっくり息を吐いた。朝の光はまだ眩しく、彼の視界の中で揺れている。その中で彼はソフィーの顔を見た。

「……綺麗だな」

 少し間を置いて。

「前からだけど」

 ソフィーは思わず吹き出し、涙でぐしゃぐしゃの頬を乱暴に拭った。

「なんですか、それ……今そんなこと言います?」

「言う」

 グウェナエルは微かに笑みを浮かべ、声を低く落として言った。

「耳、貸せ」

 ソフィーは戸惑いながらも身を寄せ、耳を近づけた。

 グウェナエルはほんの一言だけ囁く。その瞬間、ソフィーの瞳が揺れた。

 何を言われたのか、他の誰にも分からない。けれど彼女の胸の奥が、きゅっと縮むのが分かった。

「……ずるいです」

 笑っているのか、泣いているのか分からない声。

「今、ここで……そんなの」

 グウェナエルは少しだけ目を伏せた。

「……行け」

 顔を背けて、言い直す。

「俺を、一人にしてくれ」

 ソフィーは、すぐに首を振った。

「嫌です」

 声は小さいが、迷いがない。

「独りでなんて……そんなの、絶対に嫌」

「頼む」

 グウェナエルは苦しげに息を整えながら、それでも言葉を選んだ。

「俺の最期は……俺の中だけに残したい」

 グウェナエルはソフィーから視線を逸らし続ける。

「お前の目に、死に顔なんか焼き付けたくない」

 ソフィーは言葉を失い、唇を噛んだ。胸の奥が、じわじわと痛む。

「だから……今、生きてる俺を見てくれ」

 沈黙が落ちる。朝の光が二人の影をゆっくり伸ばしていく。

 ソフィーはしばらく黙ったまま、彼の胸に額を預けた。そして、かすかに息を吸う。

 グウェナエルがそっと腕を回す。

「……行け」

 声は震えていたが、折れてはいなかった。

「あいつらのところへ」

 ソフィーはその抱擁を受け止め、深く息をつく。

「……今の私が、医者の立場じゃなくてよかったです。医者だったら……きっと、何も聞かずに助けようとしてた。それが正しいって、疑いもしなかったと思う」

 小さく息を吸う。

「でも今は……あなたが選んだ答えから、目を逸らしたくない」

 グウェナエルの瞳にかすかな光が宿る。弱々しいが確かな安堵の笑みを浮かべ、かすかに呟いた。

「ありがとう」

「……あなたって、ほんと、いじわる」

 少し困ったように、でもどこか責めるようにソフィーは続ける。

「優しいくせに、ちゃんと態度で示してくるし……逃げ場なく、想いを渡してくる」

 視線を落とし、ぽつりと紡いだ。

「だから……」

 小さく息をついて、続ける。

「あなたが、今の自分を見て欲しいっていうなら……私も、伝えたい」

 グウェナエルをまっすぐ見つめる。

「今、ここで。ちゃんと、生きてるってこと」

 言い終わるや否や、ソフィーはためらわずグウェナエルの額に唇を寄せた。

 額に触れた温もりが、意識の奥まで真っ直ぐ届いた。

 痛みも、疲労も、一瞬だけ遠のく。ただ——生きているとはっきり分かった。

 ソフィーは唇を離すことなく、熱を帯びた声で告げる。

「見るだけなんて、いやです。あなたが生きていることを感じたい。それに……私も生きてるって、知ってほしい。最期だなんて……そんな顔で終わらせたくない」

 言葉にした途端、胸の奥がじんわりと温かくなる。涙で頬を濡らしながらも、ソフィーは微笑んだ。怖くも悲しくも、優しさと喜びに満ちた笑みだった。

「これが……今の私にできる精一杯。生きててよかったって、思ってほしい」

「……ありがとう、ソフィー……」

 グウェナエルの声はか細くも力強く、心の奥底から湧き上がる感情を伝えた。彼のラピスラズリの瞳には涙が溢れ、次々と頬を伝っていく。かつて鋭い切れ味を帯びていた目つきはすっかり和らぎ、弱さと優しさを湛えていた。

 孤高の戦士はこの瞬間、ただの一人の男になった。

「……生きててよかった」

 グウェナエルが声を震わせて漏らす。

 ソフィーは微笑み、彼の頬にそっと触れる。その温もりを確かめるように。

 グウェナエルもまた、そっと手を伸ばした。

「……私も。……やっと、やっと……」

 ソフィーの声はかすかに震え、頬を赤く染めながらも彼の存在を全身で感じる。

 二人はそのまま、互いを抱きしめた。触れた体温が、確かにそこにあった。

 時間だけが、ゆっくりと流れていく。

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