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第十一章② ソフィーとグウェナエル 続き

 グウェナエルがかすかに呟く。

「……やっぱり、気のせいじゃなかったんだ。君も同じ気持ちだったなんて」

 ソフィーは彼からそっと離れて小さく笑い、頬を押さえながら視線を逸らした。

「……うん。私も、気のせいだって思おうとしてました。ちゃんと言葉にしようとすると……なんだか、落ち着かなくて。心が、むずむずして……」

 その時、ソフィーの心の片隅に刻まれたあの異国の言葉とその意味が鮮やかに蘇った。

「……覚えてますか? 最初に、あなたがかけてくれた言葉」

 ソフィーは頬を赤らめながらも、わずかに意地悪く微笑む。

「もう一度、聞かせてほしいなって……思って」

 グウェナエルは一瞬眉を上げ、軽く笑った。

「……てっきり通じてないと思ってた。……こいつ、小悪魔だな」

 しかし、彼はすぐに口元を緩め、甘く囁くように言った。


"Ciao, dolce gattina, la tua bellezza è come l'alba dopo una lunga notte."


 その響きにソフィーの胸の奥がじんわりと熱くなる。

 ——やあ、可愛い子猫ちゃん。君の美しさは長い夜の後に訪れる夜明けのようだね。

 グウェナエルは少し照れくさそうに視線を逸らしながら言った。

「……やっぱり。マクシムは悪魔だが、君は小悪魔だな。港に現れた君を見たときな……正直、ひと目で惚れちまったんだ」

 ソフィーはそっと視線を下に落とす。

 グウェナエルはくすぐったそうに肩をすくめ、目を細めて続けた。

「だがな、後でシャルルとメリッサに笑われたぞ。『意外だ、らしくない』って。俺に言わせれば、『ちゃんと相手に伝わる言葉でストレートに言え』。まあ、優しい忠告をもらったんだ」

 ソフィーはつい吹き出した。

「でも、ちゃんと伝わってました。あの日からずっと、私の中に残ってました」

 彼の目をそっと見上げると、ラピスラズリの瞳が穏やかに光を帯びていた。

「……港で出逢った日から、あなたが私を見てくれてたことが、今はすごく嬉しい。優しくされるたびに……気づいたら惹かれてました」

 少し息を整えながらソフィーは続けた。

「正直いうと、最初に『猫と同じくらい大事だ』って言われた時は……え、猫と同列? って思いましたけど」

 小さく笑って続ける。

「冗談かと思ってました。……まさか、夜明けだなんて。でも今なら……あの言葉が、どれだけ大事だったか。ちゃんとわかります」

 グウェナエルは目を細め、微笑みを深める。少し照れくさそうに声を落とした。

「……そうか。君が気づいてくれていたのなら、俺の不器用さも悪くなかったな」

 彼の目が少し真剣さを帯びた。

「でも……あの時とは、もう違うんだ。港で出逢ったあの日の君も、これまで共に歩んできた日々の君も、全部知っている。——だからこそ、今ここにいる君の全てに惚れた。強さも弱さも、迷いも涙も、笑顔も勇気も、全部、まるごとだ」

 彼はわずかに息を吐き、肩をすくめる。

「……あの頃の君より、ずっと……いや、あの時にはまだ気づけなかった、今の君の輝きが、胸を打つほど綺麗だ」

「……そんなふうに言われたら、恥ずかしいです」

 ソフィーはゆっくりと顔を上げた。

「でも、嬉しい。今の私がちゃんと映ってるって思えるから」

 グウェナエルはそっと手を伸ばし、ソフィーの頬に触れる。その温もりに、ソフィーもわずかに身を寄せた。

「……でも、さっき囁いてくれた言葉……私、まだ返していない」

 ソフィーは唇を噛み、少しだけ俯いた。

「本当は……こんなこと言うの、すごく恥ずかしいんです。でも……今は、ちゃんと伝えたい」

 彼女は意を決して顔を上げ、紅潮した頬のまままっすぐに彼を見た。

「グウェナエルさん。私は……あなたを、愛しています」

 グウェナエルは一瞬だけ驚いたように目を見開くがすぐに穏やかに笑い、深く頷いた。

「……ああ。ちゃんと、届いた」

 彼女をそっと抱き寄せ、微かに息を吐く。

「……君らしいな、ソフィー」

 二人は視線を絡め、額を寄せる。

「……もう少しだけ。こうしていても、いいか」

 ソフィーは頬を赤らめながらゆっくりと微笑んだ。

 再び抱き合った二人は静かに朝陽の光を浴びながらその想いを胸に刻む。

 そして、グウェナエルは彼女の左手をそっと取った。

 静かに、躊躇いなく——薬指に唇を落とす。

 言葉にしなかった想いを、その動作ひとつに込めるように。

 ソフィーはその瞬間、心で応えた。痛みの向こうにある、彼の全ての想いを確かに受け止める。

 グウェナエルは唇を離し、熱を帯びた眼差しでソフィーを見つめた。

「……ソフィー。俺の想い、全部……受け取ってくれたか?」

 ソフィーは小さく息を吐き、まっすぐに彼を見つめ返す。そして、静かに微笑む。

「……ええ。これで——心残りは、ないわ」

 その言葉と同時に彼女はそっとグウェナエルの左薬指に手を伸ばす。指先に触れる温もりを確かめるように、軽くキスを落とした。

 ソフィーは声を震わせず、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「ありがとう、グウェナエルさん。……それから、グスターヴォ」

 グウェナエルは一瞬だけ驚いたように目を見開くが、すぐに柔らかく微笑み、静かに頷く。

「……今の俺も、昔の俺も……全部、受け入れてくれるんだな」

「ええ。今ここにいるあなたも、昔のあなたも……私は、ちゃんと見ています。だからもう、迷わなくていい」

 朝陽の光が二人の間に差し込み、すべてを温かく包み込むかのようだった。

 ソフィーは涙を必死に堪えながら微笑んで言った。

「だから……見ていてください、グウェナエルさん。弱いままでも、生きていく私を」

 一瞬だけ視線が絡み合い、互いの心が確かに通じ合う。

 ソフィーは強く息を吸い込み、笑顔のままその想いを振り切った。

「……行ってきます、グウェナエルさん。あなたがくれたものを……私、ちゃんと生きてみせます」

 ソフィーは踵を返し、朝陽の差す城壁通路へ一目散に駆け出していった。

 走り去る彼女の姿を見つめながら、グウェナエルはそっと口元を緩めた。胸の奥の痛みは鋭く増していくのに、不思議と心は穏やかだった。

「ああ……ようやく見つけたんだな。君の、生きる道を」

 塀にもたれかかり、彼は朝日を仰ぐ。

「行け、ソフィー。君が生きる世界へ」

 深く息を吐き、唇の端に微かな笑みを浮かべ、朝日の光に目を細めた。血で濡れ、傷だらけの体はもはや自分を支える力すら残していなかったが、意識だけははっきりとこの瞬間を捉えていた。

 胸の奥に残るのは、ひとつだけだった。——あの温もり。

 しばらくしてジャスパーがそっと彼の側に立ち、低く囁いた。

「……介錯をしようか?」

 朝日を浴びて赤く染まるグウェナエルの姿は、戦場の英雄としての凛々しさとひとりの人間としての哀愁をまざまざと映し出していた。

「……ああ、早く俺を殺せ」

 声は震えず、静かに空へ溶けるようだった。

 過ぎ去った日々が、光の中で一瞬だけ蘇る。

 笑いも、怒りも、痛みも。そのすべての先に、彼女の笑顔があった。

 今、自分は確かに生きていた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、そして膝を折る。最後に選んだのは、戦場ではなく——静けさだった。微かな笑みが唇に浮かぶ。瞼を閉じる前の一瞬、かすかにソフィーの囁きが耳に届いたような気がした。

 グウェナエルは、静かに息を吐いた。

 それが、最後だった。

 

 水平線から昇る朝日は城壁の石を黄金色に染め、やがて空は茜色から淡い青へと移ろう。

 海面には朝日の光が瞬きながら反射している。

 遠くで、波が寄せては返す音だけが聞こえる。

 世界は確かに回り続け、どんな闇夜にもやがて朝がきて、光を運んではまた新しい日々を生み出す。


 彼は去った。……それでも、光はそこにあった。



 ——下巻後篇「果てなき蒼に抱かれて」へ続く

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