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第十章③ ソフィー

 夜は少しずつ白み始めていた。

 三つの星はまだ空にあり、ソフィーの胸の奥にも小さな光が残っている。

 その時、宿舎の静けさを裂くように遠くから馬の蹄の音が響いた。

 ソフィーはハッと顔を上げ、反射的にリー・ウェンを見る。

「黒龍が……かなり落ち着きを失っています」

 低く抑えた声だったが、緊張は隠せていない。

「……分かった。行こう」

 ソフィーは一度だけ深く息を吸い、医務室を出た。外気が頬を刺す。

 玄関口を抜けた瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。

「ソフィー、無事か!」

 そこに立っていたのはジャンだった。日に焼けた顔。頼りなげな体つきは昔のままだが、目だけは必死だった。

「叔父さん……!」

 ソフィーが思わず駆け寄る。

「どうしてここに? 城の様子は?」

 ジャンは短く首を振った。

「中には入れなかった。耳を澄ましても、人の声ばかりでな……。もう終わった可能性もある」

「……そう」

 ソフィーの肩の力がわずかに抜ける。だが、胸の奥のざわめきは消えなかった。

「それよりもだ」

 ジャンは声を落とす。

「私はお前が心配でな。状況が分からん以上、まずここへ来た」

 叔父の一言で胸がソフィーのきつく締めつけられた。彼女の視線が自然と夜空へ逃げる。揺れる橙色の松明が、遠くブレスト城の輪郭を縁取っていた。

「……ありがとう、叔父さん」

 ソフィーは小さく頷き、息を整える。

「ソフィー」

 ジャンが静かに問いかけた。

「君は、ここにいていいのか? 仲間のところへ行かなくていいのか?」

 ソフィーの心臓が一拍、強く跳ねた。

 ——行って、どうなる?

 マクシミリアンが復讐を果たしていても、失敗していても。どちらであっても、待っているのは受け止めきれない現実だ。けれど……もう、分かっていた。

 泣いて、逃げて、傷つくのが怖くて、何もできなかった自分。

 それでも今、自分はここに立っている。

 ならば。弱いままでいい。この目で、見よう。

 ソフィーは肩を落とし、ゆっくり息を吐いた。

「……見届ける」

 心の中でだけ、そう呟く。リー・ウェンもジャンもその決意には気づかない。ただ静かに彼女のそばに立っている。ソフィーは俯き、震える拳を胸に当てた。

「……怖い」

 かすかな声が夜に溶ける。次の瞬間、顔を上げた。

「……それでも、行く」

 一歩、前に出る。

「逃げたいし、目を逸らしたい。でも……それじゃ、また同じだ」

 煤けた炎に照らされた瞳には、もう迷いはなかった。

「——私は、私のままで行く。全部、この目で見る」

 言い終わるより早くソフィーは駆け出していた。石畳を蹴る音が夜を裂く。

「ソフィー!」

 リーが手を伸ばす。

「黒龍は——」

「いらない!」

 振り返らずに叫ぶ。

「自分の足で行く!」

「医療道具は!」

 ジャンの声が追いかける。

「そんな時間ない!」

 一瞬だけ立ち止まり、振り返る。

「私はもう——役割を背負わない。ただの私で、行く!」

 そう言い切り、再び走り出した。松明に照らされた夜道は赤く燃え、その先に喧騒と悲鳴に包まれたブレスト城がそびえている。弱さを抱えたまま、それでも前へ進む者の足音が夜に力強く響いていた。

 ソフィーは宿舎の門を飛び出し、ラド・ド・ブレストを一望できる海沿いの道を駆けた。道の両側には誰もいない。聞こえるのは、砕ける波と荒い呼吸だけだった。夜の潮風が容赦なく頬を打ち、髪を乱す。黒い海は月を映しながらも、ところどころ松明の光を揺らめかせ、その度に不気味にきらめく。

「怖い……でも、もう逃げない!」

 胸の奥で叫ぶと足はさらに速く動いた。

「海軍でもない、海賊でもない、医者でもない。私は私、この結末を見届ける!」

 どこまでも続く真っ暗な道。遠くに浮かぶブレスト城だけが炎に照らされ、幻のように浮かび上がっている。だが……息が、苦しい。胸が焼けるように痛み、視界の端がじわりと滲む。

 次の一歩を踏み出そうとした瞬間、足先がもつれ、ソフィーは思わず膝をついた。

「っ……!」

 潮の匂いが一気に近づく。靴底が濡れた砂利を踏みしめる乾いた音が、すぐ耳元で砕けた。肩で息をしながら、俯いたまま必死に呼吸を整えようとする。

 ——その時。背後から低く確かな音が近づいてきた。規則正しく、地を打つ響き。蹄の音。振り返る間もなく、黒い影が視界に差し込む。

 夜の中から現れたのは、艶やかな黒毛を持つ一頭の馬だった。月明かりを受けて、金色の瞳が静かに光っている。

「……ヘイロン」

 ヘイロンはソフィーの前に立ち、ゆっくりと首を下げると鼻先で彼女の肩をつん、と押した。責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、そこにいる。

 ソフィーはその金の瞳を見つめ返し、思わず苦く笑った。ヘイロンの瞳は揺れない。夜の海よりも深く静かだった。彼女は小さく息を吸い、吐く。そして、ヘイロンの瞳をまっすぐ見据える。

「……お願い。乗せて」

 一瞬の間。次の瞬間、ヘイロンは応えるように体を寄せ、背を低くした。

 ソフィーはそのたてがみに手をかけ、よろめきながらも鞍に跨る。体勢が整うや否やヘイロンは地を蹴った。景色が一気に後ろへ流れる。風が、夜気が、涙の跡を一瞬でさらっていく。全速力。迷いの余地など与えない速さで、ヘイロンは闇を切り裂いて駆けていく。

 ソフィーはたてがみにしがみつきながら、前を見据えて叫んだ。

「どんな結末でも、私は目を逸らさないんだから!」

 その声は海風に溶けながらも夜へ刻まれていった。

 ソフィーはヘイロンに跨ったまま、闇を裂いてブレスト城の前へ辿り着いた。全速で駆け抜けてきた余韻がまだ体の奥で脈打っている。鈍い火に照らされた城門がその重苦しい影を夜空へ伸ばしている。石壁は高く、冷たく、拒絶するようにそびえ立っていた。

 ソフィーは手綱を引き、ヘイロンを止めた。馬上から見上げる城門は想像していたよりもずっと近く、同時に遠い。

「……ここまで、来た」

 息は荒い。それでも胸の奥には確かな実感があった。ヘイロンの温もりがまだ脚越しに伝わっている。一歩、いや一馬身、前へ出ようとした、その瞬間だった。

「止まれ!」

 鋭い声が夜気を裂き、同時に槍の穂先が突き出される。城門の前に憲兵が二人。剣呑な視線がソフィーとヘイロンを射抜いた。

「立ち入りは許されん。引き返せ!」

「でも、私の仲間が中にいるの!」

 ソフィーは馬上から必死に叫ぶ。声が震えるのをもう隠そうともしなかった。

「命令だ。誰であろうと、入れるわけにはいかん!」

「……っ」

 言葉を叩きつけようとして喉で詰まる。

 この門の向こうに、仲間たちがいる。それなのに、自分はここから先へ行けない。

「……このやろう……!」

 悔しさを噛み殺すように吐き捨て、ソフィーは手綱を引いた。ヘイロンが低く鼻を鳴らし、ゆっくりと踵を返す。胸の奥で、焦燥と怒りが渦を巻く。

「どうすれば……どうすれば入れるの……!」

 思わず漏れた声は夜の海風にさらわれていった。

 その時だった。視界の端に、違和感が引っかかる。低い石塀の向こう、月明かりに照らされて不自然な影が揺れていた。ソフィーは手綱を引き、馬を止める。

「……縄?」

 近づいて、はっきりと見えた。石塀に引っかかったままの鉤縄。しかも、まだ新しい。摩耗も少なく、ついさっき使われたように見える。

「……誰か、入った……?」

 胸が跳ねる。迷いより先に身体が反応していた。

 ソフィーが馬から降りて地面に足をつけた瞬間、ヘイロンの温もりが離れて夜の冷気がじかに伝わった。

「……ここで待ってて」

 小さく告げると、ヘイロンは金の瞳で彼女を見下ろし、静かに鼻を鳴らした。止めるでも、促すでもない。

 ソフィーは一度だけ振り返り、頷くように視線を交わすと石塀へ駆け寄った。鉤縄を強く握りしめる。掌に伝わる硬さと冷たさが、今の現実をはっきりと刻み込む。

「……私は、自分の足で進むって決めたから!」

 ソフィーは縄を握り直し、石塀を見上げる。城の影はなお重く、夜はまだ終わらない。だが、その瞳にはもう迷いはなかった。

 月明かりと松明の炎に照らされながら、ソフィーは縄を登り始めた。指先に石の冷たさ、掌に縄の痛み。足場を探すたびに、靴底がざらりと石壁を擦った。下を見れば、暗い闇と波の音。だが、振り返らない。

 やがて塀の上に身体を乗り上げ、ソフィーは中庭に身を投じた。だが足が地面に着いた瞬間、息を呑む。

 そこは——戦の爪痕が生々しく広がる惨状だった。

 四方八方に倒れ伏す兵士たち。呻き声と断末魔の残響が、夜気に溶ける。血と煙の匂いが鼻を突き、石畳には鮮やかな赤黒い痕が広がっていた。

「……っ!」

 思わず口元を押さえたソフィーの目に飛び込んできたのは、捕縛されたマクシム隊の隊員たちだった。縄で縛られ、うなだれる者、なおも抗うように睨み返す者。

 彼らの周りには武装した兵が取り囲み、まるで獲物を押さえ込むかのように威圧していた。

 さらに視線を巡らせば、負傷者の治療に走り回る兵士たちの姿。それでも処置が追いつかず、石畳の上で冷たく横たわる者たちがいた。その死顔の一つひとつにソフィーの心は鋭く抉られた。

「……これが……結末……?」

 足が竦みそうになる。だが、すぐにソフィーは気付く。

 まだ完全には終わっていない。遠く、城内の奥から、なお剣戟の音が響いていた。

 まだ、終わっていない。まだ、戦っている者たちがいる。

 ソフィーは血の匂いにむせながらも強く拳を握りしめた。

「……まだ終わってない」

 彼女の視線は奥へと吸い寄せられていく。

 恐怖と絶望の淵に立ちながらも、その足は一歩を踏み出すのだった。

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