第十章② ソフィーとリー・ウェン
医務室のベッドの上。膝を抱えたまま、ソフィーはしばらく目を閉じていた。
怒りも、悲しみも、後悔も。全部が胸の中で静かに混ざり合う。
「……怖くても、逃げても」
小さく息を吐く。
「……それでも、いい」
目を開ける。窓の外では遠く戦いの音が続いている。だが、その間隔はわずかに伸びていた。
「逃げる自分も、全部引き受ける」
肩を伸ばし、拳を握る。
「誰かのためでも、自分のためでも。私が選んだなら、それでいい」
窓の外をまっすぐ見据える。胸の奥で小さく、確かな震えがあった。
それは恐怖でも絶望でもある。それでも、前に進もうとする意思だった。
医務室の窓から夜明け前の淡い光が差し込んでいた。
ソフィーはそれをぼんやり眺めながらようやく息をつく。外ではまだブレスト城の松明が赤く揺れている。いくつかはすでに消え、黒い煙だけが残っていた。
「……もうすぐ、明けますね」
背後から静かな声がしてソフィーは小さく肩を跳ねさせた。振り返ると、リー・ウェンが落ち着いた表情で立っている。
「え……もう、そんなに経ったの?」
思わず零れた言葉に自分でも驚く。時間の感覚がすっかり曖昧になっていた。
リーは窓の外に目を向ける。松明の炎が城壁を照らし、城全体が息づくように揺れていた。
「……気になりますか」
彼の問いかけにソフィーは小さく頷く。
「もちろん。気にならないわけがないよ」
リーは一歩だけ近づき、穏やかな声で続けた。
「それなら……なぜ、ここにいるのですか」
胸の奥がきゅっと縮む。ソフィーはしばらく言葉を探し、それから小さく答えた。
「……怖いから」
声は思ったよりも弱かった。
「みんなのことは気になる。でも……この戦いの終わりを、ちゃんと見るのが……怖い」
耐えられない、とは言えなかった。その続きを喉の奥に飲み込む。
リーは何も言わず、ただ聞いていた。沈黙の中で松明の赤い光がソフィーの横顔を照らす。
「恐怖の中で立ち止まっている自分を、わたしは否定しません」
その言葉は静かだった。それでも、胸に乗っていた重さがほんの少しだけ和らぐ。
リーは再び窓の外を見る。
「城門は閉ざされたままでした。中の様子は確認できませんでしたが……」
淡々とした声が続く。
「争う音は、長く続いています。……かなりの時間、戦っているようです」
ソフィーは唇を噛み、窓の外を見つめた。赤く揺れる光が遠い城壁を照らしている。
「……どうして、こんなことに……」
独り言のような呟きにリーは黙って頷いただけだった。しばらくしてリーが静かに口を開く。
「ソフィーさん。あなたがここにいることにも、意味はあります」
ソフィーはゆっくりと彼を見る。
「見ている者も、必要です」
「……でも……」
声はまだ震えていた。
「みんなが……」
リーは否定せずに言葉を受け止める。
「無事を願う気持ちは自然なことです。ただ……立っているだけで、支えになることもあります」
穏やかな視線がソフィーに向けられる。ソフィーは小さく息を整えた。
「……見守ることが、今の私にできること……」
そう呟いてゆっくり頷く。窓の外で松明の炎が揺れた。
「自分を責めないでください」
リーは続ける。
「誰もが、すべてを救えるわけではありません。今は、ここに立っている自分を信じて」
胸の奥がほんの少し軽くなる。恐怖は消えない。それでも、息はしやすくなった。
リーは夜空を見上げ、かすかに微笑む。
「それに……今夜の空は澄んでいますね」
ソフィーは紅く輝く星を見て、少しだけ意地悪く言った。
「予言の星、出てるけど……東の人には、嬉しいんじゃない?」
リーは星を見つめ、静かに答える。
「ええ。ですが、喜びと同じだけ重さもあります」
視線を空に向けたまま続ける。
「その光の下で、誰がどんな選択をするのか……それが、世界を左右しますから」
ソフィーは視線を戻し、ぽつりと言った。
「……でも、その"星の子"も、人間だよね」
迷って、怖がって、間違える。
「どんな予言があっても」
リーは静かに頷く。
「ええ。だからこそ、人は星に意味を見出し、支えようとするのです。光があるから、影も生まれる」
ソフィーは戦場にいる仲間たちを思い浮かべる。
松明の光と夜空の星。希望と恐怖が混ざり合う空気の中で、しばらく黙って立っていた。
「……怖い。でも……見ていなきゃ」
小さく呟き、拳を握る。
リー・ウェンは少し距離を取ったまま、何も言わずそこにいた。




