第十章① ソフィーと少女
ソフィーは膝を抱え、医務室のベッドの上で天井を見つめていた。
窓の外ではブレスト城が燃えているはずなのに、その光を見る気になれなかった。吸ったはずの息が、胸の奥で止まる。
「……やっぱり、私はここまでか……」
声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからない。ただ、その言葉だけが確かに胸に残った。
真実を追う勇気も、第三の道を探す覚悟も。結局は途中で手を離した。
誰かのためと言い訳しながら、本当は——自分が傷つくのが怖かっただけ。
逃げた瞬間。黙り込んだまま、声を上げられなかった夜。後から後悔するしかなかった選択。
それらが冷たい壁みたいに心を囲んでいく。
「……私が、予言の星なんて……」
言葉は途中で消えた。言い切る気力すらなかった。ふと視線をずらすと窓の外に夜空が見える。
紅い星と二つの蒼い主星。三つ星が描くトライアングルはあまりにも整っていて、逃げ場がなかった。
希望の光なんかじゃない。そう思ってしまう。あれはただ、導く力も踏み出す勇気も持たない自分を静かに映しているだけだ。悔しさと、哀しさと、どうしようもない虚しさ。戦場で命を賭けている人たちの顔が浮かび、胸が痛んだ。
——私は、ここで何もしていない。
膝を抱えたまま動けない。三つ星の光に照らされながら、自分の弱さから目を逸らせずにいた。
「……どうして……」
言葉は続かなかった。代わりに聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
記憶がまた刺してくる。
士官候補生だった頃。仲間の言葉に向き合えず、結果的に死なせてしまったあの日。
マクシムに言い過ぎて、取り返しがつかなかった夜。
助けようとして、怖くて手を伸ばせなかった瞬間。
夜空の三つ星がそれらを黙って照らしている気がした。
責めるでもなく、慰めるでもなく。ただ、逃げ場を塞ぐように。
「……私には……何も、なかった……」
かつて希望だと思った光は、今ではただの鏡だ。無力な自分をはっきり映すだけの。
——予言の星かもしれない。
リゼーヌの言葉が遅れて胸をかすめる。でも、今そこに残っているのは冷たい感触だけだった。拳を握る。力は、入らない。
「……弱すぎた……」
窓の外で炎が揺れる。戦場に立つ人々の命は遠く、手の届かない場所で瞬いている。閉ざされた医務室の中でソフィーは動けずにいた。自分を救うことも、誰かを救うこともできない。そう思った瞬間、三つ星の冷たい光が静かに全身を包み込んだ。
その時、足音が静まり返った医務室の床をかすかに響かせる。思わず顔を上げた。
目に映ったのは——まだ小さな少女。背は低く、服はぼろぼろで、髪は無造作に乱れている。
まるで孤児院で過ごした頃の自分そのものだった。
「……え……?」
言葉にならない驚きと戸惑い。だが目の前の少女は瞬きもせず、じっとソフィーを見つめている。その瞳には過去の痛み、恐怖、孤独、そして心の奥底に封じ込めてきた弱さが映し出されている。
「……わたし……?」
ソフィーは言葉を探す。しかし声は震え、か細く、まるで小さな自分に呟くしかできない。
少女は恐れも怒りもなく、ただ静かにこちらを見ている。
逃げ場もなければ誤魔化すこともできない鏡のような存在感だった。
「……あの時も……こんな顔してたよね」
過去の選択、失敗、恐怖。すべて一気に蘇る。少女の瞳は無言のまま、ソフィーに問いかけてきた。
「ねえ。今回も、逃げるの?」
その一言がソフィーの胸をえぐる。声に出すこともできない後悔がここまで圧し掛かる。医務室の空気は重く、静寂の中で二つの時間軸に生きる自分が向き合う。
少女はじっとソフィーを見上げ、細い声で問いかけた。
「最初に逃げたの、覚えてる?」
ソフィーは一瞬目を閉じ、胸の奥に押し込めていた記憶を呼び覚ます。
「……六歳。ルノアール家が、引き取ると言ってくれたとき……」
少女の瞳が少し大きく開く。
「どうして?」
ソフィーは視線を落とし、言葉を選びながら答えた。
「惨めだったから」
少し間をおいて続ける。
「汚くて、貧しくて——何も持ってなかった。ラウルの隣にいるのが、怖かった」
少女は黙って聞いている。
「同じになりたかった。だから……逃げた」
少女は静かに頷き、沈黙が二人の間に流れる。その空気には、失った純真さやまだ癒えていない心の傷が色濃く漂っていた。
ソフィーはその視線を避けることなく、ただ小さな自分を見つめ返す。胸の奥に長く封じていた後悔と、逃げた自分への苛立ちが込み上げてきた。
少女は静かに一歩ソフィーに近づき、鋭く問いかけた。
「じゃあさ。今は?」
その声にソフィーの胸が締め付けられる。答えを探すように視線を彷徨わせるが、言葉は喉に引っかかる。
「……今も、あの頃と変わらない……。真実を追うのも別の道を探すのも……誰かのためって言いながら、結局は……自分が傷つくのが怖くて、やめた」
少女の瞳が静かに光を帯び、ソフィーをじっと見つめる。
「それでも、予言の星になりたかったんだ」
ソフィーは小さく息をつき、膝を抱えたまま闇の中で自分自身と向き合う。
「……なれるわけないよ」
苦く笑う。
「弱くて、臆病で……ずっと逃げてきたのに」
少女は何も言わず、肩にそっと触れた。冷たくも、温かくもない。ただそこにある手。
ソフィーはその手を感じながら深く沈み込むように目を閉じる。
少女はソフィーをじっと見据え、冷たい声で言った。
「役に立ちたかったんでしょ。生まれたときから、惨めでさ。だから、誰かの光になりたかった。認められたかった」
ソフィーは震える声でわずかに肯いた。
「……うん」
少女は小さく笑い、まるで胸の奥を突き刺すように続ける。
「でもさ。あんた、特別じゃないよ。誰にも選ばれてない」
ソフィーの唇がわずかに震える。
「……わかってる」
少女はさらに踏み込む。目が冷たく光ったまま、言葉を重ねる。
「誰かに寄り添いすぎて、自分で立つこともできなくてさ。結局、振り回されてばっかり」
ソフィーは肩をすくめ、視線を落とすしかなかった。
「……それでも、進みたかったんだけどね」
少女の声が耳元でささやくように鋭く響く。
「無理だよ。だって、あんた——今も逃げてる」
ソフィーの胸に冷たい風が吹き抜け、絶望が全身を包む。
「逃げることしかできない、臆病者なんだから」
闇の中、少女の瞳は笑わなかった。静かで、冷たくて、逃げ場のない目だった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
——どっちもお前だ。
耳鳴りの奥で、微かな声がした。
——大事なのは、自分の気持ちから目を逸らさないことだろ。
グウェナエルの声だった。低くて、落ち着いていて、命令でも説教でもない。ただ背中に手を置かれたみたいな声。
ソフィーはゆっくり顔を上げた。目の前の少女——自分自身を、改めて見る。
どうして、こんなにも責めてくるのか。どうして、ここまで怒っているのか。
その時、少女の表情がほんの一瞬だけ崩れた。眉が寄って、唇が震える。
怒りの奥に、別のものが透けて見える。孤独。痛み。
それから——助けて、という声。
「……わかりたい」
声は小さかった。でも、逃げなかった。
少女はぎゅっと唇を食いしばる。ソフィーは少女を見据え、低く問いかけた。
「……怒ってる?」
少女はサッと目をそらす。
「……なに、それ」
ソフィーは目を逸らさずに言った。
「とぼけなくていい。怒ってるんでしょ」
少女は沈黙し、唇をかみしめる。
「……なんでわかるの」
「顔に出てる」
ソフィーの言葉を受け、少女はついに言葉を吐き出す。声には震えと涙が混じっていた。
「……友達を、捨てたから」
その一言が胸に落ちる。
「自分勝手でさ……強がって、カッコつけて……ラウルのこと、嫌がってたくせに」
声が震える。
「いなくなってから、友人だったとか言うの……ずるいじゃん。……あたし、本当は寂しかった。ずっと一緒にいたかった。死んだって聞いた時……ちゃんと、悲しかったんだから」
ソフィーは胸に手を当てた。言葉が、すぐに出てこない。
少女の怒りと悲しみは鋭く、まっすぐソフィーの心の奥底に突き刺さった。しばらくして、ソフィーは静かに言う。
「……うん。それは……本当だよ」
少女は何も言わない。
「ラウルは、もう戻らない。後悔してる。今でも。もっとちゃんと話せばよかったって……何度も思う」
ソフィーの言葉に、少女の肩が少しだけ落ちた。
「でもね」
ソフィーは続ける。
「ラウルとの時間まで、なかったことにはしたくない」
少女が顔を上げる。
「楽しいことも、あったでしょ。苦しかったけど……全部が、嘘じゃなかった」
少女は首をかしげ、ぽつりと言う。
「……難しい」
ソフィーは苦笑した。
「うん。難しいね。じゃあさ……こうしよ」
彼女は言葉を柔らかく紡ぐ。
「忘れない。でも、縛られもしない。思い出のまま、大事にしまっておく」
少女の目が大きく見開かれる。
「……それって」
「ラウルは、心の中にいるってこと」
少女の瞳に微かに光が戻る。
「……まだ、怖い」
ソフィーは跪いてそっと腕を伸ばした。
「うん。でも、今は一緒だから」
少女は一瞬迷ってから、ぎゅっと抱きついてくる。震える体。
その輪郭が、ゆっくりと光に溶けていく。
温かさだけを残して、少女は消えた。
さっきまでと違って、胸の奥だけが妙に温かい。
次の瞬間、闇が解けた。




