第九章⑤ 造船所と中庭と???
——その頃。
港に近い造船所は夜霧と潮の匂いに包まれていた。
打ち捨てられたように並ぶ船体の影が、月明かりに鈍く浮かび上がっている。
「……この辺りね」
低く囁いたのはアニータだった。彼女の視線は船底の形、吃水線の高さ、索具の状態を素早く見極めていく。
「帆も生きてるし、補修跡も少ない……逃げるなら、あれが一番早いわ」
「ほ、本当に……ここから出られるんですね……」
リゼーヌは不安そうに呟きながらも、必死に周囲を見回していた。
スザンヌは無言のまま一歩前に出て積荷の陰に身を寄せる。その瞬間。
——がさっ。
積み上げられた木箱の裏から黒い影が跳ねた。
「きゃっ——!」
リゼーヌが思わず悲鳴を上げる。スザンヌは反射的に剣を抜き、影に向けて切っ先を突きつけた。月明かりがぬらりとその姿を照らす。
「……待って!」
アニータの声が鋭く割り込む。
影の正体は、人影だった。小柄、身軽で癖のある動き、そして見慣れた輪郭。
「……ペネロペ?」
月光の下、彼女の顔がはっきりと浮かび上がる。
「ペネロペ!?」
「……よかった。無事だったのね」
「生きてた……!」
リゼーヌが涙ぐみながら声を上げる。スザンヌも剣を下ろし、安堵の息を吐いた。だが、ペネロペは三人を見渡し、少し首を傾げる。
「……ねえ」
静かな声。
「三人とも、何してるの?」
「え?」
リゼーヌが一歩踏み出す。
「逃亡用の船を探してるんです! 隊長を救い出して……一緒に、ここを出ましょう!」
アニータも頷く。
「あなたも一緒よ、ペネロペ。サミュエルも、ロザリーも……全員で」
その言葉にペネロペは一瞬、目を見開いた。そして——次の瞬間、視線を落とした。潮騒だけがやけに大きく聞こえる。
「……ごめん」
目を合わせないまま、そう言った。
「それは……無理だわ」
「……え?」
問い返す間もなかった。
何かが動いた。そう認識した時には、もう遅かった。
左右から同時に飛び出した黒影が三人に襲いかかる。
「なっ——!」
アニータが振り向くより早く、リゼーヌの腕に縄が絡み、引き倒される。
スザンヌが剣を振るおうとした瞬間、背後から首元に縄がかかる。息が詰まり、身体の自由が奪われた。
一瞬だった。地面に押さえつけられ、三人は瞬く間に縛り上げられる。
月明かりの下、影の正体が姿を現す。
一人は長身で、無駄のない動き。もう一人は軽やかで、獲物を捕らえる獣のような目。
名を呼ぶまでもない。見れば分かる。
——五鬼衆だ。
ペネロペは振り返らず、静かに言った。
「……ごめんね」
その声は震えていなかった。逃亡のための最後の希望は、音もなく締め上げられていた。
中庭での戦いは熾烈を極めていた。
夜中の騒ぎで飛び起きた他部隊の隊員たちも剣を携えて乱入し、戦場はもはや収拾のつかない混戦と化していた。その刹那、城の接岸側から異質な喧騒が雪崩れ込む。
「——来たぞ!」
誰かの叫びが悲鳴に近い調子で中庭を裂く。
「五鬼衆が来たぞ!!」
「……え?」
ジョルジュが耳を疑うように呟いた。
「今の……聞き間違いかな?」
だが、否定は次の瞬間に叩き潰される。風が、裂けた。
次の瞬間、影がそこにいた。翡翠色の双眸が闇を貫き、傷だらけの顔が松明の光を受けて浮かび上がる。刃が舞った。速い。あまりにも速い。致命傷は与えない。だが第八・第九の隊員たちの剣は次々と弾き飛ばされ、地に転がる。兵たちは為す術もなく武器を失い、戦意だけを削がれていく。
「おい、あいつだ……!」
誰かが震える声で叫んだ。
「あの顔……間違いない……!」
「ルキフェルが来たぞー!!」
その名が告げられた瞬間、中庭を支配していたのは混乱ではなく、戦慄だった。
ルソーは目を見開き、思わず叫ぶ。
「な、なに……あの男が……! 一体、なぜこんな時に——!」
答えはなかった。ただ一つ確かなのは、ルキフェルが一切の迷いなく、一直線にマクシミリアンへ向かっているという事実だけだった。
マクシムは反射的に剣を構える。次の瞬間。鋼と鋼が激突した。甲高い音が夜気を震わせ、二人の間に火花が散る。鍔迫り合い。至近距離で交わる視線。
「……約束と違います」
マクシムの声は低くはっきりしていた。刃を握る手に力が宿っていた。
「僕が必ず、大元帥を殺します」
息を詰め、言葉を刻むように続ける。
「それまで……控えてください」
だが、目の前の男は今までのルキフェルではなかった。翡翠の双眸は焦燥に濁り、呼吸は荒い。
今まで"それ"だったものが、ただの人間になっている。ただ、意志だけを抱えて。
「……違う」
ルキフェルが噛みしめるように言った。
「俺は……お前を止めに来たんだ」
鍔がきしむ。刃に伝わる衝撃が指先から腕に、全身に走る。
「約束は——」
一度、言葉が途切れる。
「……間違っていた」
その一言が落ちた瞬間、剣がわずかにぶれた。
時間が歪んだかのように戦場の喧騒すら遠く、二人だけに静寂が降りる。
翡翠の瞳は怒りでも焦燥でもなく、ただ純粋な意志の叫びを宿していた。
「俺は止める。全てを、終わらせるために」
刃と刃が触れ合う音が夜気に鋭く響いた。火花が散り、戦場の光がルキフェルの背後を白く照らす。
ブレスト城の外壁沿い。
一隻の船が闇に溶けるように停泊していた。戦場とは無関係の静けさが、そこにはあった。
甲板にニールが足を踏み下ろす。海風が髪を煽り、松明の光が鋭い影を甲板に刻む。背後には、サミュエルとロザリー。三人は言葉を交わさず、ただ同じ方向——城を見据えていた。
ニールは静かに振り返り、二人を見渡す。低く、確かめるような声。
「……君たちも、戦うんだろう?」
サミュエルが一歩前に出る。迷いのない重みを帯びた声だった。
「ああ。お前たちに尽力しよう」
その答えにニールは小さく息を吐くように頷いた。
「なら……安心だ」
次の瞬間だった。ニールが甲板を蹴り、闇へと躍り出る。ためらいは一切ない。
「行くよ!」
サミュエルとロザリーも即座に続いた。三つの影が夜を裂き、城壁を越えて中庭へ。
——もう一つの戦線が、ここに加わる。




