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第九章④ 逃亡者と従者たち

 ブレスト城から少し離れた港側の路地。

 マクシムを城門まで見送った隊員たちは、暗がりを縫うように造船所へ向かっていた。足音は控えめ、息は潜ませ、それでも全員の胸の内には火種のようなざわめきが消えない。

「……隊長、大丈夫だよな」

 ダヴィットが誰にともなく漏らした。返事はなかったが、皆その問いを心の隅に抱えていた。

 造船所の影が見え始めた、その時。パッと夜空が明るむ。城の外壁沿い、松明が一斉に燃え上がった。波のように光が走り、闇を押し返す。

「……隊長!」

 リラが悲鳴に近い声を上げた。シャルルは歯を食いしばり、低く呟く。

「くっ……待ち伏せか。あれ、完全に囲まれてるな」

 ジョルジュは顔色を失い、足が止まった。

「ど、どうするんですか……? 勝てるわけ……ないですよ……」

 その瞬間だった。グウェナエルが隊の中心から突然動いた。背に掲げていた長剣を一気に抜き放つ。金属の鳴りが静寂を真横に切り裂く。

「どうするもこうするも——行くぞ!」

 彼は片手で鉤縄を掴み、迷う暇すら与えず城へ向かって駆け出した。暗闇にぽっかり開いた奈落へ、自ら身を投げるような勢いだった。

「ちょっ、グウェナエルさん! 待ってください!」

 ジョルジュが叫び、リラが追いかける。

「くそっ……!」

 ダヴィットも歯噛みしながら走り出した。その背を見送った一瞬、シャルルは足を止めた。

「——待て!」

 振り返り、後ろに残った三人を見る。スザンヌ、リゼーヌ、アニータ。

「君たちは、ここにいてください!」

 唐突で命令口調ですらあった。

「え……? シャルル、何言って——」

「待ってください、状況が……!」

「一人で行くつもりなんですか!?」

 三人が一斉に声を上げる。腕を掴まれ、裾を引かれ、必死に引き止められる。だが、シャルルはそれを振り払った。

「いいから! 来るな!」

 自分でも驚くほど声が荒れていた。視界の端では、仲間たちの背中が次々と闇に溶けていく。

 ——追うべきは、隊長か。止めるべきは、自分たちか。

「……完全に、狂った……」

 吐き捨てるように呟く。

「どうして……どうして、こうなった……!」

 答えはない。考える暇もない。シャルルは歯を食いしばり、踵を返した。判断も覚悟も追いつかないまま、それでも走り出す。

 一人が駆ければ、二人目も走る。二人目が走れば、三人目も続く。

 連鎖は音もなく転がり始め、隊員たちはそれぞれの理由と恐怖を抱えたままブレスト城の方角へと吸い寄せられていく。——もう、止まらなかった。


 グウェナエルは城の松明が燃え上がったのを見た瞬間、まるで弓から射られた矢のように駆け出した。

「隊長が中庭で囲まれている。あそこしかない!」

 誰にも説明しない。ただ確信だけが彼の脚を走らせる。来た道を一直線に引き返しながら、城の外郭を鋭く見上げる。明滅する松明の位置、影の揺らぎ、兵の動き。グウェナエルの目は戦場の輪郭を読み取り、剣裁の中心が中庭にあると見抜いた。

「くそっ……本当に城門正面で待ち伏せされたのか……!」

 彼は息を整える間もなく、低い外壁を探して周囲を走り回る。そして、月明かりの下で影がわずかに薄くなっている一角を見つけた。

「——ここだ!」

 グウェナエルは背から鉤縄を引き抜き、ほとんど迷いなく勢いよく投げ上げる。鋼の鉤が石の縁に噛み込み、乾いた衝撃音が夜気に跳ねた。

 その音を合図にしたかのように、彼は綱を引き、一気に壁面を駆け上がる。手の皮が焼けるように痛む。それでも手を離さない。離した瞬間、戻れなくなると知っているからだ。城壁の上に身を翻して転がり込むと、すぐに中庭を見下ろす。松明の炎に照らされ、包囲の陣形がゆっくり動き出していた。鋼と影が渦を巻き、戦闘はいつ爆ぜてもおかしくない状態だった。

「……隊長」

 返事のない独り言を落として、迷いなく飛び降りる。低い屋根を蹴り、石畳へ音もなく着地。そのまま影を裂くように疾走し、中庭へと飛び込んだ。少し遅れて——

「グウェナエル! 一人では無茶よ!」

 リラが必死に叫びながら壁に取りつく。

「おい、縄がまだ揺れてるぞ……行くしかねえだろ!」

 ダヴィットが吐き捨てるように言い、続いてよじ登る。

 ジョルジュは足を震わせながらも、仲間を置いていけず鉤縄へ手を伸ばした。

 こうして隊員たちは次々と城壁をよじ登り、闇の中へ吸い込まれていく。


 中庭は赤く染まり、焼けた石畳の上に血煙が漂う。マクシムの剣が振るわれるたび光が鋭く反射し、焼きつくように目に残った。

 イザベルは息を殺して見下ろしていたが、首筋にふっと冷たいざわめきが触れるような感覚があった。

「……待って。今の気配、ひとつじゃない」

 ルソーが立ち止まり、眉をひそめる。風に混じるのは、別の足音。石を擦る音。甲冑や金具のわずかな金属音。

「……仲間か」

 その方向は城壁の上。鉤縄が闇を裂くように伸び、城壁の端に食いつく。

 グウェナエルが先んじて身を翻し、宙を切るように飛び込むと中庭は剣閃が乱舞する灼熱の炉と化した。続いてリラ、ダヴィット、ジョルジュ、シャルルが次々と降り立つ。

 一瞬、誰も動かなかった。——次の瞬間、全員が動いた。怒号と火花が同時に散り、中庭そのものが彼らを呑み込む。正面の敵を斬り伏せた瞬間、マクシムの視界に隊員たちの姿が飛び込んだ。

「……来るなと言ったはずだ」

 グウェナエルが駆け抜けながら切り返す。

「俺の役目は護衛です。隊長が行くなら、俺たちも行くしかないでしょう」

 マクシムは背後で隊員たちが剣を構えるのを感じた。守るべき対象を増やすことが、どうしようもなく重い責任に思えた。それでも、その背に誰かの気配があった。

 逃亡用の船も、国境も、もはや遠い話。

 全員の選択はひとつに収束する、——守る。マクシムを、どんな結末が待とうとも。

 隊員たちは縦隊を組むようにマクシムの背に集まり、剣を振るい始めた。

 マクシミリアン・ブーケ隊は闇に溶けるように動き、次々と第八・第九の兵士たちを斬り伏せていく。

 マクシムの双影が火花を散らし、斬撃と突きが連動するたび敵は防御を破られ、血煙が中庭に立ち込める。刃が交差するたび、間合いが崩れる。崩れた隙に、もう一人が踏み込む。

「避けろ! 刺せ!」

 グウェナエルの低い声が指示となり、隊員たちは呼吸を合わせて動く。鉤縄や影を利用した迂回、連携攻撃。しかし、第八・第九も一筋縄ではいかない。内部粛清や護衛任務に特化した精鋭であり、戦場での経験も豊富だ。それでも、訓練された精鋭たちの動きは敵の数の優位を削っていく。

「屋上まで、あと少しだ。油断するな」

 グウェナエルの声が再び響く。低く、力を帯びた指示に隊員たちは呼吸を合わせ、静かに次の行動へ移る。倒れる敵が増えるほど、突破の道が開き始める。

 ルソーは一瞬の隙を見逃さず、力強く飛び降りた。石畳に着地した瞬間、周囲に微かな砂塵が舞い上がる。体勢を崩さず、すぐさま両手の武器を構える。その後ろからイザベルとアルフォンスは冷静に動く。通路に待機していた第八・第九の隊員たちに指示を送り、整列させながら中庭へと誘導させた。

「イザベル、準備はいいな?」

 ルソーが低く問いかける。イザベルはうなずき、戦場を睨みつけたまま応じる。アルフォンスは周囲を見渡しながら残った兵士を効率よく取り囲む。

 三人が中庭に揃った瞬間、光と影の中で双方の隊列が交錯し、戦場全体に張り詰めた空気が広がった。

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