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第八章③ ソフィーとジョルジュ

 ブレスト城の重厚な扉をくぐり抜け、石畳を歩く二人をアルフォンス・シャトレが先導する。城内は静かだった。外の緊張が嘘のように消え、穏やかすぎる空気が満ちている。

「こちらが大元帥の執務室です。どうぞ」

 アルフォンスはにこやかに扉を開け、二人を中へと案内する。

 扉の向こうに広がる執務室は、戦略書や地図が整然と並ぶ中にも、どこか温かみのある空間だった。

 エリオットは書類に目を通していたが、二人の足音に顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべる。

「おお、君たちか。よく来たな」

 エリオットは椅子から立ち上がり、両手を広げるようにして歓迎した。

「さあ、仕事は後回しだ。今日は執務を忘れて、お茶会に付き合ってもらおう」

 ジョルジュは少し驚いた様子で眉を上げる。

「お茶会……ですか?」

「そうだ、今日は戦略も書類も忘れて、ゆったりと話そうじゃないか」

 アルフォンスが笑顔で二人を案内し、控えめに席をすすめる。

 ソフィーは少し戸惑いながらも心の中で小さく安堵する。久々に戦いの緊張から離れられる。そう思いかけて、すぐに自分を引き止めた。この穏やかさを、そのまま信じていいのか。

 エリオットは席に戻ると温かいお茶を用意させながら柔らかく言った。

「君たちも、せっかくだから楽しめ。こういう時間も大切だ」

 ソフィーとジョルジュは少し顔を見合わせ、互いに微笑む。お茶の香りが静かに漂う執務室で、エリオットはカップを手に微笑みながら二人を見渡す。

「さて……君たちはあの東洋商人、リー・ウェンについてどう思う?」

「非常に優れた判断力と慎重さを持つ方だと思います。交渉も巧みで、海賊や商人、国を問わず信頼を得ています」

 ソフィーの言葉の後、ジョルジュも続ける。

「情報網も広く、作戦の補助としても非常に有用です。個人的には、あの人と組めるのは心強いですね」

 エリオットはカップを軽く置き、頷きながら目を細めた。

「なるほどな……確かに、あの男はただの商人ではない。見識も広いし、肝も座っている」

 一瞬、間があった。

「……ただし、ああいう男は、いざという時にどちらへ傾くか分からんがな」

 エリオットの言葉に、ソフィーはわずかに表情を引き締めた。柔らかな言葉の奥に、大元帥としての眼がある。

「戦場に近い商人というのは、案外役に立つものだ」

 エリオットはそれだけ言って、再びカップを口へ運んだ。

「君たちが彼とどう接しているか、こうして聞けるのも面白いものだ。戦略や作戦ではなく、ただの世間話だが」

「戦場の緊張から離れると、こういう話も貴重ですね」

「そうだな。たまには、こういう時間を大切にせねば」

 エリオットはそう言って再びカップを口に運ぶ。室内には静かで温かい空気が漂い、ひとときの安らぎが訪れていた。

「ところで、このお茶ってもしかして……?」

 ジョルジュがカップを口に運んだあと、首を傾げながら尋ねた。

「お、気づいたか。これは東洋のお茶だ。独特の香りと澄んだ味わいがあるだろう?」

 ソフィーも一口含み、口当たりの柔らかさと後味の清涼感に気づいて頷いた。

「確かに……普通の紅茶とも違う、ほっとする味ですね」

「パリに居る時には、よくこれを飲むのだよ。だが今回は、ブレストに来るときにうっかり置いてきてしまってね。なくてはどうにも落ち着かないので、わざわざ取り寄せたのだ」

 ジョルジュが苦笑しながら肩をすくめる。

「わざわざ取り寄せるくらいとは……よほどお気に入りなんですね」

「嗜好というのは、ささやかなものほど心を和ませる」

 エリオットはそう言って再びカップを傾け、薄く漂う香りを楽しむように息を吐いた。

 ソフィーは湯気の立つ茶器を見つめながら、ふと口を開いた。

「……以前、友人が言っていたことを思い出しました」

 エリオットが興味深げに眉を上げる。

「友人?」

「はい。彼はこう言ったんです」

 ソフィーは少し言葉を整えてから、柔らかに続けた。

「『紅茶はね、香りで人を惹きつけるけど、味はごまかせない。苦すぎても駄目だし、見栄を張っても茶葉の味は嘘をつかない。人の心と同じだよ』と」

 一瞬、部屋に静かな余韻が落ちた。

 ジョルジュはカップを揺らしながら「へえ」と目を丸くし、エリオットは目を細めてソフィーを見つめる。

「ほう……茶の心か」

 彼はそう呟き、ゆっくりと微笑んだ。

「香りで人は惹きつけられる。だが……味は隠せん」

 そこで言葉を止め、しばしカップの表面を見つめた。残りは、沈黙に任せるように。

 ソフィーは頷き、カップの縁に視線を落とした。

「はい。私も、その言葉がとても印象に残っています」

 エリオットはしばし黙し、指先で軽く茶器を撫でながら、窓外へ視線を流した。

「……茶葉は本音を隠せぬ、か。私もまた、忘れられぬ言葉を幾つも持っている。人の心を捉える言葉は、時に長い時を越えて胸に残るものだから」

 彼の声音には懐かしさと寂しさが入り混じっていた。

「……忘れられぬ言葉。そうだな。私にとっては、妻の言葉がある」

 ソフィーはわずかに目を見開いた。エリオットが自ら妻のことを語るのは珍しい。

「結婚する前、まだ若かった頃に彼女が言ったのだ。『あなたはきっと多くの人に慕われる。でもね、忘れないで。人は言葉ではなく、安心できる沈黙に寄り添うものよ』……と」

 彼の声音には、かすかな震えが混ざる。

「当時は意味がよく分からなかった。だが立場が上がるにつれて、彼女の言葉の重みが胸に沁みるようになった。香りや言葉で人を惹きつけることはできても、心を守るのは誠実さと沈黙の温かさなのだと」

 ソフィーはそっと頷き、胸の奥が締めつけられるように感じた。

「茶葉は心を映す……。そして、沈黙もまた心を守る。……君の友の言葉と、彼女の言葉はどこか響き合っているな」

 エリオットはそう言って、穏やかに目を細めた。そのうち彼は席を立ち、アルフォンスを伴って扉の方へ向かった。

「すぐ戻る。少し待っていてくれ」

 柔らかな笑みを残し、扉が静かに閉じられる。一瞬、執務室には湯気と静けさだけが残った。

「……さて」

 ジョルジュは椅子に深く腰を沈め、机の上の茶器をじっと見つめる。

「なあソフィー。例のアレ、早く渡すべきじゃないか?大元帥が席を外してるうちに、どっかその辺に置いてこう」

 ソフィーは眉を寄せ、小声で首を振る。

「でも、直接渡せって言われてたし……。それにこんなタイミングで置いたら、ただの不審物に見えるかも」

「確かに。けどさ…あの人、戻ってきたら絶対また世間話に引き込むだろ。そんで空気ぶち壊しながら唐突に密書出すとか……ボクなら恥ずかしすぎて死ぬ」

「……わかる」

 二人は同時にため息をつき、顔を見合わせて苦笑した。

「どうせボクたち、空気壊すの下手なんだ。だからさ、ここはスマートに置いて、気づいてもらえばいいんじゃね?」

 ソフィーは数瞬迷ったのち、小さく頷いた。

「……わかった。じゃあ」

 彼女は懐から密書を取り出す。羊皮紙の封蝋が淡い光を反射し、緊張で指先が少し震えた。

 ソフィーは立ち上がり、慎重に執務机へ歩み寄る。机の上には整然と並べられた書類や羽根ペン、磨き込まれたインク壺。その真ん中に空いた、ちょうど一枚分の余白があった。

 そこにそっと密書を置いた。指先を軽く離すと封蝋が机の木目に沈み、まるで最初からそこにあったかのように馴染んだ。それはあまりにも自然で、かえって不自然だった。

「……よし」

 小声で呟き、ソフィーは席に戻った。

 ジョルジュは腕を組み、にやりと笑う。

「完璧。あとは大元帥が気づくのを待つだけだ」

 二人の胸に走ったのは、緊張よりも妙な悪戯を仕掛けた子供のような、くすぐったい高揚感だった。

 ほどなくして扉の向こうから足音が響き、エリオットがアルフォンスを伴って戻ってきた。

「お待たせしたね」

 柔らかい声に、ソフィーとジョルジュはほっとしたように何食わぬ顔で席に着いている。カップを指先で転がすように持ち、まるで先ほどからずっと談笑を続けていたかのように振る舞った。

「いやぁ、いい天気ですね」

 ジョルジュがわざとらしく言うとソフィーは「そうね」と相槌を打つ。

 エリオットは特に不審がる様子もなく、二人の正面に腰を下ろした。

「さて、続きを——」

 再び世間話が始まる。東洋の商人の話、パリの街角の小噺、王宮での退屈な儀礼のこと……。

 お茶会は終始穏やかに流れ、やがて執務室の大時計が低く鐘を打つ頃、エリオットがようやく腰を上げた。

「今日は来てくれて嬉しかった。またいつでも訪ねておいで」

 彼の言葉にソフィーとジョルジュは深く礼をして、アルフォンスも二人の案内役として退出した。扉が閉まり、足音が遠ざかる。室内に静寂が戻る。

 一人残ったエリオットはふぅと息をつき、机に視線を落とした。そして、そこに置かれた見覚えのない封書に気づく。

「……?」

 しばし見つめる。その表情は驚きではなく、どこか懐かしさを含んだ静けさに染まっていた。

「……やはり、来たか」

 エリオットの茶色い瞳が深く底知れぬ光を帯びた。彼は指先で封蝋をなぞり、ひと呼吸置いてから小刀を取り上げる。乾いた音とともに蝋が割れ、中の紙を広げた。そこに記されていたのは、わずか数行の短い言葉。


 ゼフィランサスのことで話がしたい。二月十八日、夜。ブレスト城の屋上にて。


「……ゼフィランサス……」

 その名を口にした途端、胸の奥に重く沈んでいた痛みが疼く。笑っていた顔が浮かび、次の瞬間には血の色に塗り替わった。

 エリオットは眉をひそめ、封書を握る手に力を込めた。誰が何の目的でこの名を使うのか。だが確かに、自分の心を揺らすには十分すぎる言葉だった。

「……あれから二十年」

 低く呟き、彼は文を畳んで机の引き出しにしまい込む。鍵をかけたその動作は慎重でありながら、胸中の波を隠すことはできなかった。窓の外に目をやる。冬の雲は厚く、ブレストの城壁を灰色に染めている。その空を見上げながら大元帥は微かに笑った。

「ゼフィール。どうやら、お前にもう一度会えるらしい」

 エリオットは背もたれに深く身を預け、長い吐息を漏らした。

 過去に背を向けることはできない。そう悟るように、彼の眼差しは静かに決意の色を帯びていく。

「この城の屋上で、だな」

 誰に聞かせるでもなく呟いた声は冷たい執務室に淡く消え、誰もいないはずの空間にわずかな気配だけが残った。

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