第八章① ソフィーとグウェナエル
医務室に閉じ込められて、何度朝を迎えたのか分からなくなっていた。
外に出られず、部屋の中だけで時間を過ごす日々は静かでありながら妙に重苦しい。
手元の密書を眺めては、隊長や仲間のことを思い巡らせる。その隣に、日記帳とペンを置いた。
ここ数日、何も手をつけられなかった日記。サン・マロ奪還作戦からここまで、あまりに多くの出来事が過ぎ去ったのに書き留める時間はなかった。今なら、少しずつでも振り返れる。
「……よし、書こう」
そう決め、静かにページを開く。手が少し震えていた。ペン先が紙に触れるたび、心の中のざわめきが少しずつ形になる。
私は医務室に監禁されたまま、隊長の復讐と部隊の安全を間接的に支える立場に置かれた。
窓の外には静かに朝日が差し込む。胸の奥で、また一つ覚悟を固める。
たとえ隔離されても私は見届ける。
月光として、誰かの炎に呑まれそうになった心を静かに照らす光であり続ける。
思えば、隊長の炎は誰かを守るために燃えるのではなく失われたものへの怒りとして燃え上がっている。
それは正義でも慈悲でもない、純粋な報復の炎だ。
私はその炎を止めることはできない。けど、燃え尽きる場所だけは示すことができる。
港の波音や風の匂いを想像しながら、私は静かに胸に誓った。
「どんな道を選ぼうとも、私はあなたを見届ける——月光であり続ける」
外では任務に向かった仲間たちが風に乗り、遠ざかっていく。
その波間の音を耳に私はじっと息を整え、孤独と覚悟の朝を迎えた。
医務室の扉が静かに開く。——鍵の音がしなかった。
「暇そうだな、医者殿」
低めの声が響く。ソフィーの視線が上がると、そこにはグウェナエルが立っていた。
「……グウェナエルさん?」
「おう、久しぶりじゃないか。隊長がまだ暴走中で、お前は今もここで幽閉か」
その口元には微かな笑みが浮かぶ。
「……幽閉、ですか」
「まぁ、心配するな。ほら、特別に差し入れを持ってきたぞ」
グウェナエルがポケットから小さな革袋を取り出す。中には干し果物やチョコレートが入っていた。
ソフィーは目を丸くする。
「ありがとうございます……」
「いや、気にすんな。こういう時、話し相手も必要だろ?」
グウェナエルは軽く肩をすくめ、ベッドの端に腰を下ろす。
「それにしても、隊長のあの熱意と怒り……あれは、見てて怖い。けど、ソフィー、お前はちゃんと理性を保ってて偉いな」
ソフィーは小さく息を吐き、手元の日記を握る。
「ええ……ただ、読んだだけで気が抜けません」
「なるほどな……じゃあ、今日は俺と少し話でもするか?」
グウェナエルの声には安心感があった。医務室の冷たい空気が少しだけ柔らかくなる。
「なあ、ソフィー」
グウェナエルはベッドの縁に腰を下ろしたまま声をかける。
「お前もさ、あの隊長に振り回されっぱなしだな」
「ええ……振り回されてます。けれど、日記を書きながら整理していたら少しだけ自分の心が見えてきました」
グウェナエルは静かに笑う。
「それもいい。俺もな……考えたんだ。海軍としての階級、戦功、名誉。やっと手に入れたのに、それでも俺はあの男についていくんだって」
「……それでも?」
「そうだ。それでもだ。正直、理屈で考えたらこの俺が単独で勝てる相手じゃないし、戦功や地位にしがみつくほうがずっと安全だ。海軍の誰もがそう考える。でも……あの男の背中を、俺は見捨てられない」
ソフィーは日記にペンを走らせながら彼の言葉を胸に刻む。
「……理屈じゃない、信念なんですね」
グウェナエルは頷く。
「ああ、信念だな。誰かの希望や未来を守るためじゃなく、あの男を……仲間を、俺自身の目で見て確かめたいからだ」
「……その覚悟、尊いですね」
「尊いも何も、俺はただ俺の心に従ってるだけだ。だからソフィー、お前も悩むな。俺はマクシム隊の一員でいることに誇りを持ってる。たとえどんな困難が待っていようと、俺はこの隊とこの隊長についていく」
ソフィーは深く息を吐き、胸の奥に静かな光を感じた。揺れる心を支えるように、グウェナエルの信念がそこにあった。
グウェナエルはベッドの縁に腰を下ろしたまま腕を組み、ソフィーを見た。からかうでもなく、責めるでもない、少しだけ探るような視線。
「……それにしてもさ。隊長に向かって『死ねばいい』は、珍しいよな。お前らしくない」
ソフィーは小さく息を吐き、視線を逸らした。
「……つい、感情が先に出てしまいました」
「だろうな」
グウェナエルはふっと口元を緩める。
「お前、普段は医者としてちゃんと筋道立てて話すじゃないか。でもさ…医者じゃないソフィーは、どうなんだ?」
その言葉にソフィーの胸の奥で何かが静かに沈む。
「……医者としてなら、正しい判断はできます。でも……私自身は……」
言葉が途切れる。
「ただ、迷っているだけです」
「迷い、か」
グウェナエルは呟き、天井の方に視線を投げた。
「医者の顔は強い。理性もある。でもさ、ソフィーは誰かのために動くだけの人間じゃないだろ」
ソフィーはほんの小さく頷いた。
「それでいいんだよ。迷えるってことは、それだけちゃんと考えてるってことだ」
ソフィーは床を見つめたまま、静かに呼吸を整える。
「……医者の私は、強くあろうとします。でも、ただの私は……考えて、迷って、悩んでしまう」
「それでいい」
グウェナエルは即座に言った。
「どっちもお前だ。無理にどちらかに決める必要はない。大事なのは、自分の気持ちから目を逸らさないことだろ」
ソフィーは小さく微笑んだ。その沈黙の中で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。やがて彼女は顔を上げ、冗談めかして言った。
「……でも、さすがですね。一度死んだ人の言葉は、やっぱり重みが違います」
グウェナエルは肩をすくめ、にやりと笑う。
「そりゃあな。死んで戻ってきたんだ。多少は説得力もつくだろ」
「……本当に、怖くないんですか?」
その問いは冗談ではなかった。グウェナエルは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
「怖くないさ。国家反逆罪だろうが、また死ぬことになろうがな」
ソフィーはその言葉の裏にある微かな揺れを見逃さなかった。
「……それ、本音ですか? 建前じゃなくて」
グウェナエルの肩がほんの少し落ちる。「……正直言うとさ」と口を開きかけ、一度、言葉が止まった。
「……どこかで、また死にたいと思ってる」
ソフィーは息を詰める。
「……どうして?」
その瞬間、彼の背中に走る緊張、乱れた呼吸が目に入った。いつもの軽口も戦場の冷静さもない。ただ、剥き出しの感情だけがあった。沈黙ののち、グウェナエルはぽつりと語り出す。
「理由なんて、うまく言えないけど……わけも分からず生かされて、また戦場に放り込まれて、生き地獄みたいな日々を繰り返すくらいなら……」
言葉を選ぶように少し間を置く。
「死んだほうが楽だって、思っちまったんだ。一度死んだからさ……あっちの声も聞こえる。『無念だ』『お前も来い』って、囁かれる」
ソフィーは何も言わず、ただ彼を見つめ続けた。強さと脆さが同時にそこにあった。
「……それでも、隊長についていくんですね」
「ああ」
グウェナエルの声に迷いはなかった。
「もう、引き返せない」
彼の瞳には覚悟があった。光と影が同時に揺れている。
ソフィーは静かにはっきりと言った。
「でも……私は、願っています」
グウェナエルが息を止める。
「あなたが隊長に生きてほしいと願うように、私はあなたに生きていてほしい」
彼女の目には医者としてではない、一人の人間の強さがあった。
「この世界は、思っているよりずっと広くて、美しい。——そう思えた瞬間が、確かにあった」
一瞬、目の奥に遠い景色が戻る。ノルマンディーの海岸線。風に揺れる草と、白い波。ラウルが隣で笑っていた。そして——あの島でも。混沌としていて、自由で、どうしようもなく生きている場所でも。
「だから、もう一度だけ生きることを選んでください」
ソフィーは小さく微笑み、続ける。
「……私のところに帰ってくることを、目標にしてみませんか。それだけでも、生きる理由になるはずです」
グウェナエルの肩から力が抜ける。目の奥にかすかな光が戻った。しばらく黙って彼女を見つめ、やがて小さく笑う。
「……なんだよ。ちゃんと自分の気持ち、持ってるじゃん」
ソフィーも微笑む。
「ええ。生きてほしいんです。過去がどうであれ、今ここにいるあなたを私は見捨てません」
グウェナエルは照れたように視線を逸らす。
「……一度死んでる俺に効きすぎるな」
「私は、ここにいます。怖くなったら、帰ってきてください。生きていること自体が希望なんです」
グウェナエルは一瞬迷い、それから深く息を吸って笑った。
「……そっか。じゃあ、もう少しだけ……頑張ってみるか」
医務室の狭い空間に静かな温かさが広がる。
ソフィーは思わず瞳を揺らし、小さく息を吸い、彼の腕に手を伸ばした。声が、形になる前に崩れた。
「グウェナエルさん、わたし……」
その瞬間、グウェナエルがそっと立ち上がった。
「言うな」
その声には以前の冗談めいた軽さはなく、深く揺るがぬ意志が宿っていた。
ソフィーは目を伏せ、胸の奥で小さく痛みを覚えた。口に出せば、互いの心の真実があらわになる。しかし、戦を目前にしてそれは許されない。
グウェナエルは落ち着いた声で続けた。
「言わない方がいいこともある。たとえ心の奥で思っていても、口に出すべきじゃない」
その瞳には覚悟と戦に赴く者の孤独が映る。
ソフィーは彼の言葉を静かに受け止め、胸の奥でぎゅっと心を握りしめた。
「俺はもう……覚悟を決めたんだ。これ以上、迷いたくない。俺が背負うべきものは、俺が背負う。だから、今はただ前を向くしかない」
ソフィーの胸は締め付けられる。互いに抱く想いは確かに存在するのに、今はそれを確かめ合うことも、口にすることも許されない。その切なさが、二人の間の静寂に鋭く影を落とした。
ソフィーはただ深く息を吐き、涙をこらえながら小さく頷いた。やがてグウェナエルはソフィーに背を向けて歩き出す。
「……じゃ、そろそろ行く。少し怪我を見てもらおうと思ったが、もう完治したし帰る」
ソフィーは思わず目を丸くして突っ込む。
「相変わらず回復力早すぎですよ、あなた……!」
グウェナエルは肩をすくめ、軽く笑う。
「まあな。死んでる期間があるから、多少の傷じゃ驚かんさ」
そして去り際、彼は自分の胸を指差して付け加える。
「ああ、そうそう。今のでここもちゃんと治ったから」
ソフィーは少し微笑みながら頷いた。
「……そうですか。それなら一安心ですね。でも次は怪我したらちゃんと来てくださいね」
グウェナエルは一瞬振り返り、穏やかに感謝の意を込めて言う。
「ありがとう、ソフィー」
そして、医務室の扉を静かに開け、影のように去っていった。
ソフィーはその背中を見送りながら、医者としての責務と自分自身の思いの両方を胸に抱え、静かに息をついた。——互いの心が確かに触れ合った証だった。
グウェナエルが去った医務室に、静かで穏やかな余韻が薄く残っていた。
けれどその静けさは次の瞬間、扉の蝶番が軋む音が断ち切った。




