第七章⑨ ソフィーとマクシム
その時、執務室の扉が静かに開き、マクシムが封筒を手にして戻ってくる。
「終わりました」
隊員たちが一斉に顔を上げ、視線が集中する。シャルルが眉をひそめ、リゼーヌとアニータが息を呑む。マクシムはその緊張をどこか愉快そうに見渡し、微かに笑みを浮かべた。
「みなさん、まだ残っているなんて熱心ですね」
シャルルがやや呆れた口調で問う。
「それで? 誰に届けさせるつもりですか」
マクシムは答えず、ゆっくりと机の間をまっすぐ歩いていく。その視線は迷いなくソフィーの方を向いていた。
「……君に」
彼は密書を差し出す。紙の端がわずかに震え、手の痛みを感じさせるが表情は平静を装っていた。執務室の空気がきしむ。密書を押し付けられた瞬間、ソフィーの呼吸がわずかに乱れた。
「……受け取れ。これは命令だ」
マクシムの低く抑えた声。けれど、その奥に焦りと苛立ちが鋭い棘のように覗いている。
ソフィーは首を横に振った。拒否というより拒絶。身体が反射で拒んでいる。
「……いやです。こんなの、受け取れません」
「聞こえなかったか? 命令だと言った」
「だから嫌なんです!」
声が跳ねた。二人の距離が一気に詰まる。ソフィーの手の中で密書が震えた。
「どうして……どうして私なんですか。あなたなら他にいくらでも方法があるでしょう」
「他にはいない。今、大元帥に最も近づけるのは君だ」
「そういう問題じゃありません!」
ソフィーは声を震わせながら続ける。
「あなた……私が嫌いなんですか? こんな形で利用されて、当然だと思ってるんですか?」
マクシムの眉がわずかに動いた。
「利用じゃない。任務だ。必要だから、君にしかできないから言っている」
その必要という言葉が、彼女の胸の奥を鋭く貫いた。
「……必要。でも、それは私の意思じゃない」
マクシムがわずかに息を呑むが、ソフィーは構わず続けた。
「あなたはずっとそう。私の気持ちを考えもせず、命令を押し付ける。この前だって……私を問い詰めて、背を向けて……」
マクシムが目を伏せる。ソフィーは息を詰まらせ、言葉を絞り出した。
「私、あなたに生きてほしいって……ずっと思ってたんです。危険を背負いすぎないでほしいって。それでもあなたは、死ぬような道ばかり選ぶ」
マクシムは言い返さない。沈黙が逆に彼の頑なさを際立たせた。
「私は……あなたを守りたかった。でもあなたは、そんな私すら利用するんですね」
マクシムが小さく眉を寄せる。
「違う。おれは——」
「違わない!」
ソフィーは密書を胸に押し付け、目に溜まった涙を拭う間もなく叫んだ。
「やっぱりあなたは、人の心がないんですね」
マクシムが静かに立ち尽くす。その無反応こそ、ソフィーを深く傷つけた。
「生きていてほしいと願っていた私が、馬鹿でした」
声は震えているのに言葉は容赦がなかった。
「それなら……さっさと大元帥を殺したら、あなたも死んでしまえばいい」
最後の一言を吐き出すと、ソフィーの表情はひどく静かだった。
怒りでも憎しみでもなく、諦めだけが残っていた。
マクシムの指先がわずかに動く。だが彼は一歩も踏み出さない。その距離が二人の心の裂け目そのものだった。
隊員たちは誰一人、声を出せなかった。「ソフィーが死ねと言った」という事実だけが刺さったまま喉をふさぐ。グウェナエルだけが目の奥を揺らして小さく言葉を落とした。
「……ソフィー、その……」
止めるでも、責めるでもなく。ただ戸惑いだけが漏れた。
ソフィーは微動だにしない。医師として、人として、相手を見極める眼だけがマクシムを射抜いていた。
マクシムの口元がかすかに震える。悲しみでも後悔でもなく、胸の奥からせり上がった何かを噛み殺そうとしている動きだった。ソフィーの「死ね」を、彼は真正面から受け止めた。それは自分がずっと望みつつ、期待してはいけないと思っていた線引きだった。
——そうか……そう来たか。
自分はもう、彼女の生の範囲から外れたのだ。医師が見捨てるに値する存在として、きれいに切り離された。それは異様なほど甘い解放だった。
これで、復讐に向かうだけのただの怪物になれる。
マクシムは顔を伏せたまま、次の瞬間、ぞわりと冷たい熱が身体から吹き出した。笑った。だがそれは、声帯の震えと表情筋の動きが一致していない、おかしな笑いだった。
「…………っは」
掠れた吐息が押し殺せない失笑に変わり、唐突に弾けた。
「……ははっ……は、はははははっ」
振り切れた笑い声が執務室の壁に跳ね返る。明るさも楽しさもない、壊れた機械の不協和音のような笑い。ジョルジュがごくりと喉を鳴らし、リラが一歩だけ後ずさる。グウェナエルの手は剣に伸びかけて止まった。笑いをぴたりと止め、マクシムは呟く。
「死ねばいい、か……。医者の君が、一番言ってはいけない言葉じゃないか?」
マクシムの口元は笑っているのに、声に一切の曲線がない。感情を押し潰して平坦に伸ばしたような、不自然な静けさ。その違和感が、狂気そのものを際立たせていた。
ソフィーは息を整え、鋭い眼差しで応じる。
「ええ、私は医者です。人を相手にする医者です」
執務室の空気が張り詰め、隊員たちの視線がソフィーに集まる。彼女の声は揺らいでいない。
「鬼を相手にはしません」
その一言には怒り、悲しみ、そして揺るがぬ決意が込められていた。胸の奥であの日エリオットが言った言葉——「果たして鬼を相手にしても、医師としての矜持は通用するかな?」——が響き返す。
ソフィーは自分の矜持を確かめるように視線をマクシムに固定した。
「私が守るのは、人としての理性や命を持つ者だけです。たとえ目の前にいる者が戦争の渦に身を投じ、道を踏み外していても……鬼ではない限り、私は助けます」
隊員たちはその言葉の重みと共に彼女の覚悟を噛みしめる。
ダヴィットが短く息を吐き、グウェナエルも目を細める。
マクシムはしばし沈黙した。赤く滲んだ傷を抱え、痛みをこらえながらも目の奥には微かな感情の揺れが見えた。
「……なるほど、そういうことか」
かすかに感嘆にも似た響きを帯びた声。
ジョルジュが恐る恐る口を開く。
「え、えっと……なんて言った? その……」
ソフィーはゆっくり息を整え、必要なことだけを静かに告げる。
「鬼というのは、人の心が歪んだときに生まれる存在。理性や情を失い、人であることをやめた者の象徴」
淡々と明確な線引きを含んだ声だった。
「これは大元帥から教わった伝承です。心がどうしようもなく歪んだとき、人は鬼になる。そう教えられました」
彼女の説明を受け、隊員たちは息を呑む。誰ひとり言葉を持てず、静かな恐怖が空気に染み込む。
その瞬間、マクシムの中で何かが完全に千切れた。壊れたような笑みは消えていた。残っているのは、色のない怒りと底の見えない衝動だけ。
「鬼、か……。おれが鬼? なら、君は何なんだ。君は人であることを捨てずにいられるほど、強いとでも? 人を切り捨てて、心を守ったつもりか?」
怒りすら通り越して、ただむき出しの反応が身体を突き動かしていた。彼の視界の端でグウェナエルの腰の剣が見える。
その瞬間、マクシムはほとんど反射で動いた。気づけば刃を抜き、ソフィーの喉元へ突きつけていた。金属が空気を裂き、冷たい刃先がソフィーの肌すれすれで止まる。微かに震えているのはソフィーでも刃でもなく、マクシムの呼吸だった。隊員たちは凍りついた。「止めなきゃ」と思った者はいたが、その前に身体が固まった。マクシムの声は怒気に満ちているはずなのに、どこか空虚だ。
「おれを鬼だと決めつけても、状況は変わらん」
低いのに妙に通る声。その目はぎらついているのに、底が抜けている。
「君には密書を届けさせる。これは命令だ。——おれの許可が降りたら、必ず遂行しろ」
ソフィーの瞳は揺らがない。恐怖でも怒りでもなく、「まだ人に語りかけるように」マクシムを見つめていた。
「……やめろ。その目で見るな」
彼の怒りはもはや衝動ではなく、自分自身から逃げたいがための攻撃性だった。そのまま刃を突きつけ続け、ソフィーはそれを真正面から受け止めていた。
「……見張りをつけるか」
マクシムの目は周囲を一瞥する。
「不幸にも……ジョルジュ、お前だ」
ジョルジュは思わず目を見開く。
「え……ボ、ボクですか?」
「おれの命令だ。密書を届ける際は、お前がおとなしく監視しろ」
刃を突きつけたままの姿勢から、マクシムはゆっくり視線だけを隊員たちへ向けた。笑ってはいない。怒鳴りもしない。底の抜けたような静けさで言葉を落とす。
「……この女は計画の邪魔でしかない。医務室に閉じ込めておけ」
その声は低いのに恐ろしくはっきり響いた。マクシムの視線は拒否という概念を許さないほど冷たく研ぎ澄まされている。
マクシムはさらに隊員たちを見渡した。いまの彼には迷いという要素が欠片も残っていない。
「……これがおれの本性だ。退きたいなら、今退け」
その言葉が空気を裂いた。
ジョルジュは青ざめ、リラは口元を押さえ、シャルルとダヴィットですら眉を寄せて一歩動けずにいる。額に汗をかくアニータの背後で、リゼーヌとスザンヌが身を寄せ合って震えている。グウェナエルだけが押し殺した息を吐いて舌打ちをした。
「……やれやれ。とうとう化けの皮を自分で剥ぎやがったか。」
だが足は動かない。退いた瞬間、命ごと切り捨てられるという圧が、誰よりも雄弁に語っている。
そしてその恐怖の中心に立つマクシムは——静かすぎた。異様な透明さをまとっていた。
ゆっくりとソフィーから刃を離し、剣をグウェナエルに無造作に投げ返す。その動作に迷いはひとつもない。そして静かな声で口を開いた。
「決行日は……二月十八日の夜だ」
空気が震えた。死刑執行の日付を淡々と読み上げる者の声だった。
「おれ一人でブレスト城へ向かう。護衛も、同行も要らん。……邪魔をするな」
底知れず冷たい確信。爆発とは違う種類の、静かな狂気だった。
「おれ一人で、大元帥と決着をつける」
隊員たちは息を呑んだ。止められないと知る確かな直感が全員の背を冷やす。
ソフィーだけが怒りと絶望の入り混じった目でマクシムを睨んでいた。拳は震えていたが、その震えは恐怖ではなく胸の奥で燃える拒絶の温度だった。
マクシムはそんな彼女から視線を外し、ただ静かに言い捨てる。
「以上だ。これが、おれの道だ」
その瞬間、執務室は無音になった。まるで嵐の目に吸い込まれたように。
ソフィーは足元の感覚が薄れていくのを感じながら、医務室へ押し込まれた。手にはマクシムに半ば叩きつけられた密書。
扉が閉まる音はまるで鉄格子のように重く響く。背後で鍵がガチリと沈んだ。まだ、あの底なしの眼光が瞼の裏に残っている。
ジョルジュがか細い声で言った。
「……ごめん、ソフィー。ほんとに……どうすればよかったのか、わかんなくて……」
彼の指は震えていた。牢を見張る看守じゃない。隊長を止められなかったひとりの若い兵士としての震え。グウェナエルも視線を逸らしたまま長い息を吐く。
「……無理だ。あんな目、今まで見たことねぇ。止めたら……誰がどうなったかわからん」
その声は悔しさと恐怖の等分だった。リラは唇を噛みしめ、俯いたままかすかに首を振る。
「命令だから、って……言いたくないけど……私たち、あの空気の中じゃ動けなかった……」
ソフィーは密書を握り直しながら、黙って三人を見つめた。
「……謝らないで」
低く押し出すと声は思った以上にかすれていた。
「誰にも……止められなかった」
三人は何も言い返さない。扉の向こうに立つ三人の靴音が不揃いに遠ざかっていく。鍵がもう一度確認するように回される。その音が部屋の中に長く尾を引いた。
医務室はいつもと同じ白い壁のはずなのに、いまは閉鎖された独房のように冷え切って感じられた。
ただ一人残されたソフィーは密書を見つめた。
──これを渡せばいい。役割は決まっている。
そう思おうとするたびに胸の奥がきつく締めつけられる。
気づけば密書を握る手に力が入りすぎて、紙がわずかに歪んだ。そして、ソフィーは薄く目を伏せる。
自分の中のどこかが、じわりと欠け始めているのを察したかのように。




