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第七章③ リー・ウェン

 リー・ウェンが食堂に足を踏み入れると昼下がりの光が斜めに差し込み、静かな空気をやわらかく照らしていた。

 長テーブルの端でソフィーが分厚い本を開き、肘をつきながら読みふけっていた。ページをめくる指先が止まり、彼女は顔を上げる。

「——あ、リーだ。どうしたの?」

 ソフィーの声は素直でどこかほっとした響きがある。

 リー・ウェンは胸に抱えた木箱を抱え直し、かすかに微笑んだ。

「少し、台所をお借りしてもよいですか?」

「もちろんよ。案内する」

 ソフィーは本をぱたりと閉じて立ち上がり、リーを奥の厨房へ導く。厨房は調理の準備が終わった直後らしく、香草とパンの香りがまだ漂っていた。

 リーは手際よく水を張った鍋を火にかけると、袖を少しだけまくり、木箱から取り出した細い包み——夢蛇の乾燥片を静かに開く。鍋が湯気を立て始める頃、彼の動きは儀式のように滑らかで無駄がない。

 そんな彼の背中を見つめていたソフィーが、ぽつりと声を落とした。

「ねえ、リー。……あの時、なんで私に毒をくれたの?」

 鍋から立ち上がる湯気の向こうで、リー・ウェンの指先がぴたりと止まった。

 ソフィーの脳裏には、あの夜の光景がよみがえる。

 ——海賊同盟との初戦を翌日に控えた、霧深い夜。

 眠れずにいた自分の前に音もなく現れたリー・ウェン。淡い灯りに照らされた彼の手には小瓶。中には琥珀色の液体が揺れていた。

「お土産です。いざという時、役に立つかもしれません」

 そう言って差し出されたあの毒は、妙にあたたかい手触りが残っていた。

 過去の霧と、今の湯気が重なる。ソフィーの問いは静かに空気を揺らした。

 リー・ウェンはゆっくりと振り返る。鍋の湯気が彼の横顔を揺らし、その目の奥に淡い微笑が灯った。

「——ああ、あの時のことですか。医務室の前を通りかかった時、あなたの声が聴こえたんですよ」

 ソフィーが瞬きをする。

「声?」

「ええ。『毒を持って毒を制す。第三の毒で先に仕込まれた毒を中和して吐かせる』。……そんな独り言が」

 さらりと告げる声に嘘はなく、その軽さが逆にぞくりとする。

「つい、力になりたくなりまして」

「……え? わたし、声に出てた?」

 ソフィーは思わず自分の喉元に手を当てる。

 あの夜、彼女は医務室の隅でベルナルド・シルバの日記を読んでいた。

 毒物の調合法。とりわけ「毒と毒の干渉」について書かれた章に夢中になり、思考が口に漏れたのかもしれない。薄暗いランプの下でページをめくりながら、ほとんど無意識に声に出していた自分の姿が急に鮮明に蘇る。

 ソフィーは恥ずかしさとも、どこか肌の下を撫でられるような不思議な感覚ともつかないものに包まれて視線を落とした。彼女が思い出に沈む横で、リー・ウェンは再び鍋へ視線を戻す。湯気の向こうで、彼はほとんど別の思考の海に潜っていた。

 ——琥珀色の毒。あれは、酒に微量の《夢蛇》を溶かし込んだだけの代物だ。ただ持っていると怪しまれるから、カモフラージュ用に精製したに過ぎない。もちろん他人に飲ませるつもりなど毛頭なかったし、自分でも試したことはない。だが……飲めば嘔吐と震えくらいは起こすだろう。

 微量とはいえ、夢蛇は夢蛇。あれも、種類の違う毒には違いない。

 鍋の中で赤褐色の蔓草と暗紫色の樹皮がゆっくりと色を滲ませる。

 リー・ウェンは長い箸で静かにかき回しながら、うっすらとした笑みを浮かべた。

 ——まあ、何にせよ。必要なのは量と使いどころですね。

 心の中でそう呟き、作業の手を止めない。ソフィーの存在は感じているが、今はほとんど別の戦場に意識が置かれているようだった。

 鍋の中で煮詰まった《夢蛇》がじわりと不気味な青を帯びはじめた頃、リー・ウェンは火加減を調えながらふと後ろにいるソフィーへ振り返った。

「——空の瓶ってあります?」

 唐突すぎる問いかけに、ソフィーは瞬きをした。

「あ、あるわ。医務室に空の薬瓶がいくつか残ってるはず。取ってくるね」

 軽く手を上げ、そのまま小走りに食堂を出ていった。

 リーは頷くと再び鍋へ向き直り、青く変色した液体の表面を静かにかき混ぜる。湯気に濃く立つ、夢蛇特有の甘ったるいのにどこか渋い匂いが、台所の空気をじわじわと満たしていった。

 リー・ウェンは片手を袖で覆いながら鍋を見つめ、低く息を吐いた。

「……敵相手に使うなら、効果は素早くなければ」

 呟きは静かだったが、目の奥には研ぎ澄まされた光が宿っている。

 彼は棚から小さな陶器の漏斗と細い布を取り出すと、鍋の中身をゆっくりと布に濾し始めた。落ちてくる液体は最初こそ暗い紫だったが、数度の濾過を経るうち澄んだ青へと変わっていく。

「……やはり、西の地で精製すると色が変わりますね」

 かすかな興味を含んだ声。

 本来、東方で精製される天眼滴は琥珀色を帯びる。だがフランスの水と薬草がそれを変える。古い書に言う、「異邦の地で作ると蛇の眼の色になる」というのは、こういうことか。

 彼は濾し終えた青い液体を細口の小瓶に注ぎながら、ほんのわずかに眉を寄せた。

「——精製型《天眼滴》。これ以上は濃度を上げられませんが……十分でしょう」

 液体は光にかざすと微かに揺れ、深い青の底に黒い影が走るように見えた。視る者を覗き返すような、不気味な色。

 リー・ウェンは瓶の栓を固く閉めた。その手つきには迷いがない。だが胸の奥には静かな緊張が生まれていた。

「敵に用いるのは、あくまで最悪の時だけ。——どうか、使わずに済みますように」

 ひとり呟いたその声は青い液体よりも冷たい。

 ちょうどその時、医務室から戻ったソフィーの足音が食堂の方から近づいてきた。

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