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第七章② シャルル

 一方その頃、キール通りの宿舎。

 午後の光が差し込むマクシムの執務室では、シャルルが金の腕輪を手の中でひっくり返しながら、ひとり怪しげに唸っていた。

「……うーん。どうにも、匂うんだよなあ。こいつ」

 そんな独り言が部屋にこもった頃、扉が控えめにノックされる。

「失礼します」

 静かに姿を見せたのは、リー・ウェンとロザリーだった。二人は一歩入ったところでぴたりと足を止め、シャルルの挙動を見て小さく顔を見合わせる。先に口を開いたのはリー・ウェンだった。

「……シャルルさん。何をしているんですか?」

「いやあ、この腕輪がどうにも気になってな。ちょっと前から妙な臭いがしましてね。こう、事件の香りというか」

「それ、褒め言葉じゃないよね……」

 ロザリーが呆れた息をつく。だがリー・ウェンは腕輪に興味を示し、そっと手を差し出した。

「少し……触ってもいいですか?  内側、見てみたいんです」

「お?  もちろん。どうぞどうぞ」

 シャルルは腕輪を差し出す。

 リー・ウェンは慎重に指先で内側の縁を探り、僅かな段差に気づくと、爪先でカチリと音を立てた。

「……ん?」

 次の瞬間、腕輪の内側にごく小さな溝が開き、そこからほとんど目では捉えられないほどの薄刃と微細な粉末が仕込まれているのが露わになった。

「これ……毒ですね。ごく微量ですけど、皮膚からでも吸収できる類のものです」

 リー・ウェンの声は冷静だが、部屋の温度がわずかに下がったように感じられた。

 シャルルもロザリーも一瞬、言葉を失う。リー・ウェンの指先から離れた腕輪を見つめながら、シャルルが低く唸った。

「……ダラス家の三男が、なんのためにこれを?」

 金の腕輪の内側に隠された毒粉と薄刃。そこに込められた意図を考えながら、リー・ウェンは淡々と答える。

「まあ、いわゆる暗器というものですね。暗殺用か……あるいは、自決用か」

 ロザリーが小さく息を呑む。その静かな反応とは対照的に、シャルルは腕を組んでさらに深刻な顔つきになった。

「……あの男。今は君の下で匿っているそうだね。危険では?」

 どこか探るような声色だったが、リー・ウェンは顔色ひとつ変えずに答えた。

「お気遣いなく。——協力的な人たちが管理していますので」

 その「協力的な人たち」というリー・ウェンの言い方が妙に引っかかる。シャルルは眉をわずかに上げたが、リー・ウェンの柔らかい物腰の奥に張りつめた警戒心がひそんでいるのを感じ取って口をつぐんだ。腕輪は机の上で光を反射しながら、静かに不穏を告げ続けている。

 リー・ウェンは腕輪から手を離すと、ふと思い出したように姿勢を正した。

「そうそう。マクシム隊長から頼まれていた船ですが……船はすでに港に入っています。積荷と人員の調整に二日ほど。終わり次第、出せます。さて、マクシミリアン隊の中で乗船する者は?」

 シャルルは机の端にメモを置きながら答える。

「隊長の指示だと……ロザリーとサミュエル、そしてペネロペ。この三人が乗ってエル・イエロ島に向かう」

「了解したわ」

 ロザリーが軽く頷く。旅立つ緊張よりも、任務を託された責任感のほうが勝っている表情だった。だが、リー・ウェンはふっと視線を伏せ、少しだけ真剣な声音に切り替えた。

「……わたしから、皆さんにお願いしたいことがあるのです」

 シャルルとロザリーが同時に顔を上げる。

「実は、手配している船にある積荷が載せられています。エル・イエロ島に着いたら、真っ先にそれを破棄してもらいたいのです」

 ロザリーは思わず眉をひそめた。

「……なんで?」

 リー・ウェンは一呼吸置き、慎重に言葉を選びながら続けた。

「積荷の中身は……この西の地にあってはいけないものなんです。わたしたちの手で、確実に処分しなければならない」

 静かな部屋に、重たい言葉だけが残る。

 シャルルは怪訝な表情でリー・ウェンと腕輪を交互に見たあと、急に「あ」と小さく声を漏らした。

「……ちょっと待ってろ」

 何かに思い至ったような気配を残し、シャルルは急ぎ足で執務室を出ていった。扉が閉まる音が妙に大きく響いて、残された二人の間に不穏な沈黙が落ちた。

 しばらくして足音が戻ってくる。シャルルが片腕で抱えられる程度の、小ぶりな木箱を抱えて執務室に入ってきた。

「……これのことですね?」

 シャルルが無造作に見えてどこか慎重な手付きで机に置くと蓋をそっと開けた。その瞬間、ふわりと薬草と鉄を混ぜたような、嗅いではいけない類の匂いが広がる。中には乾燥して赤褐色に変色した細い蔓草と、砕けば黒紫の粉が舞いそうな暗紫色の樹皮の欠片。見るだけで背筋がざわつくような不気味な存在感。

 ロザリーは後ずさりしそうな勢いで目を丸くした。

「……何それ?」

 リー・ウェンは一瞥しただけで「ああ」と声を上げた。

「それ、まだ使っていなかったんですね」

 言い方があまりに軽いので、逆に不穏さが増す。リー・ウェンは箱の中身を指し示しながら淡々と続けた。

「そうです。その夢蛇ムシャ、東洋で禁制品とされている幻覚性毒草の一種です。どういう経路かは分かりませんが、このフランスの地に密輸品として流れついていて。東洋人であるわたしたちとしては放置できず、一部を押収したものです」

 ロザリーは数秒固まったあと、ギギ、とゆっくり首だけ動かした。

「……あなた。数ヶ月前の密輸品の話、してたけど」

 リー・ウェンは薄く笑みを浮かべて肩をすくめる。

「はい?」

「もしかして……それのこと?」

「正解です」

 淡々と返すリー・ウェンの口元はいつもより少し楽しげだった。

 シャルルは木箱を見下ろし、眉間をぎゅっと寄せた。

「……じゃあそんなもの、ぼくに押し付けないでくださいよ」

 声は震えてはいないが、明らかに怒っている。

「危うくぼくが犯罪者になるところだったじゃないか」

 リー・ウェンは、悪びれるどころか軽く笑った。

「いやあ、力になりたかったんですよ。それに——」

 彼は片手をひらひらさせながら、さも常識のように続ける。

「保管先を分散させる方が、積み荷を狙う連中の混乱を招けます。一本にまとめておくと、盗まれたら一巻の終わりですしね」

 リー・ウェンの表情が急に引き締まった。

「……ですが」

 わずかに息を置く。

「この先、何があるかわかりません」

 淡々としていながら、底に硬さがある声だった。

 リーはシャルル、ロザリーの順に視線を移し、それから木箱を見下ろす。

「どうでしょう。密輸品と共に行動するという以上——」

 そこで言葉を区切り、静かに続ける。

「この幻覚剤を使用することも、視野に入れておいては?」

 ロザリーが「はぁ!? 正気!?」と声を張り上げ、シャルルは「いやいやいやいや、使う前提で話しないで!?」と全力で首を振る。だが、リー・ウェンは二人の大騒ぎをものともせず淡々と続けた。

「——あくまで万が一の時のため、です」

 声音は穏やかだが、瞳は一点の揺らぎもない。

「相手は厄介です。一筋縄ではいきません」

 シャルルは口をパクパクさせ、ロザリーは「……厄介ってレベルじゃないでしょ」と呆れを通り越して幻滅している。リー・ウェンはまるで二人の反応を想定の範囲内とでも言うように小さく息をついた。

「もちろん、常用など考えてはいません。緊急時、どうしても状況を打破しなくてはならない局面があれば——」

 そこで言葉を区切り、木箱の中身を指先で軽く示す。

「……役に立ちます」

 沈黙。シャルルとロザリーは互いに顔を見合わせて絶句している。そしてリーはごく自然な調子で続けた。

「準備は、わたしがしておきましょう。煮出して液状にすれば扱いも容易になりますから」

「待て待て待て待て!!」

 シャルルが素で叫んだ。

「なんで液体化を当然みたいに言うの!? やる気満々じゃないか!」

 ロザリーもこめかみを押さえて「怖い……東の人って怖い……」と小声で震えている。リー・ウェンは二人の反応に微笑すら浮かべず、ただ淡々としている。

「必要なものは、必要な時に使えるように。これが基本ですよ、シャルルさん」

 その落ち着きようは、むしろ恐怖そのものだった。

「ダメよ! そんな危険なもの絶対——」

 ロザリーは食い下がるが、シャルルは目を細め、静かに息を吸い込む。

「……わかった」

 ロザリーが固まる。

「シャルル? ちょっと待ちなさい!」

 だが彼はロザリーを見ず、リー・ウェンをまっすぐ見た。その声音は震えていなかったが、もう観念した人間特有の深い諦めが滲んでいた。

「島に向かう三人——ロザリー、サミュエル、ペネロペを守るためだ。リスクも承知の上で言う。……幻覚剤の準備は君に任せるよ」

「何言ってんのあんた!?」

 ロザリーが素で叫ぶが、シャルルはもう木箱を手に取っていた。彼はゆっくり歩み寄り、木箱をリー・ウェンの方へ差し出す。

「頼む。……できるだけ安全に扱ってくれ」

 リー・ウェンは眉一つ動かさず、深く頷いた。

「承知しました。では、適切に仕上げておきます」

 箱を両手で受け取った瞬間、ロザリーが憤慨しながらシャルルの後頭部を小突く。

「ちょっと! 勝手に決めないでよ! 何よ任せるって!」

「う、うるさいな! ぼくだって好きで言ったわけじゃないよ! 誰かさんがすぐ刺客に突っ込んでいくから危険度が跳ね上がるんだ!」

「はぁ!? 関係ないでしょ! あんたの判断が早すぎるのよ!」

 ふたりが取っ組み合い寸前の勢いでワーワーやり合う横で、リー・ウェンはまるで「庭で犬が吠えてるな」くらいの顔で無言。軽く一礼し、木箱を抱えたまま静かに執務室を出て行く。扉が閉まる直前、リー・ウェンの衣擦れの音だけが妙に静かに響いた。向かう先は、宿舎一階の食堂。

「……煮出すには、湯と鍋が必要ですね」

 誰に聞かせるでもない独り言を残しながら、彼は淡々と階段を降りていった。

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