第六章③ マクシム
午後の柔らかな日差しに包まれた中庭でマクシムは手綱を握り、ヘイロン黒龍の顔をじっと見つめていた。ヘイロンは耳をぴくりと動かし、首をわずかに振る。だが、その目には警戒が残っている。
「ヘイロン、落ち着け」
低く静かな声で語りかける。威圧ではなく、信頼を差し出す声音だった。
マクシムはしゃがみ込み、ゆっくりと手を差し出す。
「焦るな。無理に馴れろとは言わない。少しずつでいい」
ヘイロンは慎重に鼻先を伸ばし、その手の匂いを嗅ぐ。わずかに距離が縮まる。だが次の瞬間、耳を伏せて身を引き、そっぽを向いた。蹄が石畳を小さく鳴らす。
「……無理か」
マクシムは肩を落とす。怒るでもなく、ただ立ち尽くすしかない。
「どうしてだ、ヘイロン……」
返るのは冷たい沈黙だけだった。しばらくそのまま向き合っていたが、やがて遠くから規則正しい銃声が響く。マクシムは顔を上げた。
「……あれは、ジョルジュか」
中庭の端で、ジョルジュが射撃訓練に励んでいる。火花とともに放たれる銃声が、乾いたリズムで空気を刻んでいた。マクシムはゆっくりと息をつく。
「そうか……集中すべきは、こっちだったな」
マクシムは視線をヘイロンから外し、訓練へと向ける。銃声が止むと、ジョルジュが振り向いた。マクシムは歩み寄る。
「よく励んでますね」
ジョルジュの目が輝く。
「五鬼衆の一人、マテオさんを何としてでも超えたいのです。ですから、手は抜けません」
マクシムは微かに笑みを浮かべ、頷いた。
「その気概、忘れないでください」
二人は短く視線を交わす。中庭には静かな熱だけが残っていた。ヘイロンは相変わらず距離を取ったままだったが、マクシムはそれ以上追わず、背を向けた。そのまま宿舎を出る。潮風が肌を撫でるたび、身体の奥にわずかなだるさが残っていたが、気に留める余裕はない。
港に着くと、ざわめきの中にリー・ウェンの姿を見つけた。いつものように気配もなく現れる。
「リー、情報が欲しい。最近の動きを手短に」
マクシムの言葉にリーは片眉を上げ、軽く笑う。
「またですか。いいでしょう。まずは状況整理からいきましょう」
リーが資料を広げる。
「最近の海賊たちの動きは?」
「大きな動きはありません。先日の戦闘以来、おとなしいものです。エドガー・ロジャースとフェルナンドの処刑が効いているのでしょう」
リーの言葉に、マクシムの脳裏へあの光景が蘇る。
歓喜する群衆。絞首台の前で渦巻く熱狂。理性を失った顔の群れ。
「あの群衆の熱狂ぶりは……耐えられなかった」
マクシムが低く吐き出す。胸の奥に、冷たい嫌悪が広がった。リーは静かに頷く。
「恐怖や支配の前では、人の感情は簡単に歪みます。だからこそ、冷静であることが必要です」
マクシムは港の風を吸い込み、拳を軽く握る。
「……サン・マロを取り戻せたことは嬉しい。だが、命を差し出すのはいつも戦う者たちだ」
彼は視線を遠くへ投げる。
「群衆も、王宮も、上層部も……憎くてたまらない」
波音がその声に重なった。リーは少し身を乗り出す。
「……それは、ゼフィランサスのことですか?」
マクシムは首を振る。
「いや、彼だけじゃない。すべての尊い同士たちのことだ」
静かな怒りと哀悼が混ざる声だった。リーはわずかに肩をすくめる。
「……なるほど。ずいぶんと重いものを背負っているようですね」
マクシムは小さく頷く。
「重荷だ。だが、背負うべきものだ」
ふと、自分の耳に触れる。黒ずんだ石のイヤリング。冷たい感触が、胸の奥の記憶を静かに呼び起こす。
マクシムは一度目を伏せ、気持ちを鎮めた。
「五鬼衆の居場所は?」
リーは首を振る。
「残念ながら不明です。あらゆる海を巡っている可能性がありますね」
「……さすが五鬼衆だ」
マクシムが息をつく。
「ですが、いずれ手がかりは掴めるはずです」
リーの言葉にマクシムはしばらく考え、ぽつりと告げた。
「実は、五鬼衆の一人——ルキフェルと約束してるんです」
リーの眉がわずかに動く。
「約束、ですか?」
「ええ。計画が成功した暁には、ルキフェルが僕を殺す」
一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
リーは慎重に言葉を選ぶ。
「……それで、彼らを呼び寄せたいと」
「そうです。時期も近い。だから、五鬼衆を集める必要がある」
マクシムの瞳に、計画の輪郭が映る。
「その計画、もう詰めていますか?」
「まだです。細部はこれから」
マクシムの返事にリーはわずかに笑う。
「では、ひとつ情報を。スペイン沿岸部に、裏社会と繋がる者からの報告があります。密かに動く海賊と物資の情報です」
マクシムの視線が鋭くなった。
「使えそうだな」
「それと、これはポート・ロイヤルから来た船団が広めた噂ですが……個性的な海賊たちと遭遇したそうです」
「個性的?」
「詳細は不明です。ただ、同じ海域で複数の報告があります」
マクシムは少し考え、低く呟く。
「……五鬼衆の一部かもしれないな」
リーの目が細くなる。
「可能性はありますね」
マクシムは一歩踏み出した。
「リーさん。船を一隻用意してほしい。小型のガレオンでいい」
「船を? 用途は」
「隊員を遠出させる。少人数で動ける船が必要だ。水夫も」
「目的地は?」
マクシムは耳元で小さく告げた。リーは頷く。
「……了解しました。こちらの船を回します。船員もつけましょう」
「いいのですか?」
「……まあ、都合よく船が空いていましてね。特別サービスですよ、お得意先ですから」
マクシムは軽く頭を下げた。
「助かります」
「ちなみに、誰を遣いに?」
リーの問いに、マクシムは少しだけ間を置いた。
「まずは全員に話す。その上で、賛同してくれる者を選ぶ」
彼の声は静かだが、迷いと責任の重さが滲む。
「……難しい選択になりそうですね」
「ええ」
マクシムが小さく笑、リーは腕を組む。
「船自体はすでに押さえてあります。二日あれば出せますよ」
「相変わらず早い」
「当然です。取引は——」
「スピーディーに行うのが鉄則」
二人の声が重なる。一瞬の沈黙のあと、互いに小さく笑った。
マクシムは息を整え、視線を港の先へ向ける。
「あとは僕の隊に話をするだけ」




