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第六章② ジャンの過去

 ソフィーはジャンの隣に腰を下ろし、慎重に口を開いた。

「叔父さん、先日、大元帥から直接聞きました。ヴール・レ・ロズには大元帥の別荘があり、そこには奥様とご子息も住まわれていたと。叔父さんも、そのことをご存じだったのですか?」

 ジャンはわずかに微笑み、深く頷く。

「実は、昔は知らなかったんだ。君を引き取って見送った後、大元帥とご子息に偶然会ってな。その後、食事を共にした」

 どこか懐かしむように目を細め、ジャンは言葉を継ぐ。

「覚えているかい? 君を引き取ったあと、クラリスと一緒に先にパリへ向かった時のことを」

 ソフィーは眉をひそめ、小さく首を傾げた。

「それが……その辺りの記憶がどうも曖昧で、よく覚えていないのです……」

 そう答えながら、内心では焦りが走る。冷や汗がじわりと滲んだ。

 ジャンは静かに頷く。

「あのあと私がブレストでの出張任務に赴く間、君の兄アントワーヌはあの町に残した。大元帥……当時は参謀官だったか。奥方とご子息のもとで過ごしていたんだ」

 ソフィーは思わず身を乗り出す。

「ご子息と、兄が一緒に?」

 ジャンの顔に苦い影が差した。

「二人は良好な関係だった。参謀官にも会えたよ。だが、私が出張任務から戻ってアントワーヌを引き取りに来た時には、休暇中の参謀官が血相を変えて屋敷を飛び出していくところだった。それは今でも覚えている」

 ソフィーは言葉を失う。ラウル、アントワーヌ、そして参謀官時代のエリオットとジャン。思いがけない交点に胸の奥がきつく締まった。

「……そうだったのですか……」

 ジャンは視線を落とし、静かに言った。

「事情はいろいろあった。だが君に知ってほしかったのは、あの時、私たちが何を考えていたかということだ」

 ソフィーは少し視線を伏せ、慎重に問いかける。

「何があったのか、それも大元帥から伺いました。あの別荘で、残酷な事件があったことを……。叔父さんは、そのこともご存じだったのですか?」

 ジャンは深く息をつき、頷いた。

「ああ。何しろ、私も調査に立ち会ったのだから」

 ソフィーは息をのんだ。

「……立ち会った、とは……」

「私は軍医ではなかったが、それなりに医療の知識はあった。事件を聞いて調査のため屋敷に赴いたが、専門の医師と話しても、あの現場はおかしかった」

 ジャンの声が低く沈む。

「屋敷中が遺体と血に溢れ、あちこちに無数の切り傷や亀裂が走っていた。現場にも、人にも。いや……もはや人とは呼べぬほどだった。誰の顔かも判別できないほど残虐に殺されていた。思い出すだけで凍りつく」

 ソフィーは視線を床に落とした。戦場で見てきた死とは違う。もっと息が詰まるような、人の手による冷酷さが胸の奥まで迫ってくる。

「……戦場でなら、死や傷は覚悟の上だ。それでも……あの現場は、言葉にできない」

 ジャンは遠くを見るように続けた。

「あの残虐性は、悪意を持った者の仕業としか思えなかった。私たちはあまり直視できなかった。遺体の判別も、大体の大きさだけで行った。ご子息の部屋には二人分の遺体があって、服装からしてもちゃんと見るまでもなく、大元帥の奥方とご子息に違いないだろうと判断した」

 その瞬間、ソフィーの胸が強く痛んだ。その部屋に、ラウルが含まれていた。そう思っただけで、全身から血の気が引く。

「……ラウル……」

 声にならない声が喉から漏れた。怒りも、悲しみも、無力感も、一度に押し寄せてくる。

 ソフィーは手で顔を覆い、しばらく黙り込んだ。ジャンは深く息をつく。

「それに、私もあの時は気が狂いそうなほど混乱していた。朝からアントワーヌの姿が見えず、気が動転していたところへ事件の報せを聞き、そのまま調査に向かったのだから」

 彼の言葉には、当時の焦燥が滲んでいた。

「屋敷の中の遺体の光景……あの中に、もしかするとアントワーヌも巻き込まれたのではないかと恐怖に駆られた」

 ソフィーは震える声で尋ねる。

「その……アントワーヌ兄さんの姿は、あったのですか?」

 ジャンは重く口を開く。

「あの現場にはなかった。だが、消息不明なのに変わりはない」

 安堵ではなかった。恐怖と不安だけが、形を変えて胸に残る。

 ジャンは俯いたまま続けた。

「私はアントワーヌを厳しく教育しすぎた。ただ一人の後継だったからな。それゆえに苦しめた。もしかすると、その重圧に耐えられず姿を消したのかもしれない」

 その言葉の重みが、ソフィーの胸に沈む。戦場でもない、家族の問題でもない。血筋に結びついた痛みが、鈍く心を締めつけた。クラリスが静かに言う。

「ジャンはあの事件のあと、しばらく職務を離れて休職していたの。あまりにも大きな傷だったのね」

 ジャンは苦く息をついた。

「そうだ。世間では、新しい伝説の海賊ゼフィランサスが討たれ、国中が大喜びしていた。その報せを聞くたび、人々は祝福しただろう。だが私の頭からは、あの惨状が何度も何度も離れなかった」

 ソフィーはその言葉を聞きながら、胸の奥に深い陰りが広がっていくのを感じていた。

「叔父さん、嫌なことばかり思い出させてしまい、申し訳ありません。ですが、どうしても気になることがございます。お伺いしてもよろしいでしょうか」

 ジャンはゆっくり頷いた。

「もちろんだ。何でも聞きたまえ」

 ソフィーは呼吸を整え、言葉を選ぶ。

「あの事件の犯人についてです。未だ発見されていないと聞いております。大元帥は、ゼフィランサスの仕業ではないかと考えていたそうです。おそらく、今でも——」

 そこでソフィーは一度言葉を切り、叔父を見つめる。

「叔父さんも、ゼフィランサスの仕業だとお考えですか?」

 ジャンは遠くを見たまま答えた。

「正直に言えば、わからない。あの行為は常軌を逸している。相当怒り狂い、憎しみを抱いた者か、あるいは複数人の犯行か……あるいはその両方かもしれぬ」

 低く、重たい声が続く。

「人を残酷に切り刻むなど、並みの精神では成し得ない。よほどの憎悪か、計算された狂気が必要だろう」

 ソフィーはしばらく黙り込み、それから静かに息をついた。

「わかりました、叔父さん。……どうやら、当時のことをこれ以上思い出すのは辛すぎるようです。私はこれ以上何もお聞きしません。踏み込むこともしません。お話しくださり、ありがとうございました」

 ジャンは肩の力を抜くように微笑んだ。

「なんだ、君らしくないな。普段の君なら臆せず追及するだろうに」

 ソフィーは小さく肩をすくめた。

「叔父さんも同じですが、大元帥はいまも当時のことを引きずっています。私たちには到底計り知れない孤独と悲しみを、ずっと背負っているのです」

 ソフィーの声は静かだが、はっきりと言葉は置く。

「そう思うと、これ以上踏み込むことはお互いのためにも、そして何より悲しみを受けた方々のためにも、そっとしておくべきだと考えました」

 ジャンの目がわずかに揺れた。言葉にはしなかったが、彼女の想いは十分に伝わっていた。

 静かな沈黙が落ちる。その中で、ソフィーの胸には複雑な感情が渦巻いていた。

 ——正直、私自身も苦しい。親友も、兄も失い、真実を求めてここまで来たのに、すべてを明らかにできないのは悔しい。でもそれ以上に、深い傷と闇を抱えた者たちをこれ以上見ていられない。癒せない自分が情けなくて、苦しい。私にできることは、これ以上苦しませないことしかないのだ。

 やがて、クラリスが柔らかな声で言った。

「それでも、時間ばかりが過ぎてしまうわ。どこかで前を向かなくてはね」

 ソフィーは静かに頷く。

「……そうですね、叔母さん」

 クラリスは微笑んだ。

「今日はこの辺でお開きにしましょう。また日を改めて、三人でご馳走でも楽しみましょうね」

 ジャンも立ち上がる。

「私たちはしばらくブレストに滞在する。忙しくなければ、また会おう」

 ソフィーは深く一礼した。

「承知しました。今日はありがとうございました」

 三人は笑みを交わし、別れた。

 叔父夫婦の背中を見送りながら、ソフィーは胸の奥に小さな安心が残るのを感じていた。

 戦場の恐怖も、家の問題も、失った者たちへの悲しみも消えはしない。けれど、今日の会話は確かに心を少しだけ軽くした。

「叔父さん、叔母さん……本当にありがとう」

 小さく呟く。同時に、ひとつの決意が胸に芽生えていた。

 正しい判断を下し、仲間と家族を守ること。

 たとえすべての真実を明らかにできなくても、背負った者たちをこれ以上苦しませないようにすること。

 それが、いまの自分にできる最善なのだと。

 夕日の光が広場をやわらかく染める。

 ソフィーは静かに目を閉じ、次に来る日々に備えるように深く息を吸った。

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