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第四章⑧ アルフォンス

 ソフィーは医務室の扉を押し開け、中庭へと歩み出た。

 夜の静寂がまだ残る城内に、遠くから馬の蹄の音が響く。その音は次第に近づき、やがて黒い馬の背に乗った人物の姿が見えた。

 リー・ウェンだった。呼吸を荒くし、額に汗を滲ませながら、必死の表情で駆けてくる。ヘイロンの鞍にしっかりと体を預け、手綱を強く握ったまま、馬を止めるや否や彼女は駆け寄った。

「ソフィー! 大変です、急ぎ知らせなければ!」

 ソフィーは思わず足を止め、驚きと緊張が混ざった表情でリー・ウェンを見つめた。

 リー・ウェンは息を整え、必死に告げた。

「ソフィー、宿舎が……戻ったら、誰もいませんでした! 誰一人として……」

 ソフィーの足が一瞬止まる。思わず眉をひそめ、唇を噛む。

「……な、何ですって? 全員、ですか?」

 中庭にヘイロンの蹄の音が響く。その時、城内にいたアルフォンスが蹄の音を聞き、慌てて中庭に飛び出した。

「……リー・ウェンだな、何の用ですか!」

 ソフィーは驚愕の表情でアルフォンスに視線を向ける。

「……シャトレ司令官、あなた、知っていますか? マクシミリアン隊が、一体どうして誰も宿舎にいないのか!?」

 アルフォンスは資料を抱え直し、焦った表情で答える。

「そ、そんなことは……知らなかったです。ただ、その……」

 ソフィーの鋭い視線がアルフォンスを射抜いたままだった。彼女は勢いよくアルフォンスの前に歩み寄り、抱えた資料を奪い取った。ページをめくるたびに目が見開かれる。

「な、なんですって……? サン・マロ奪還作戦……!?」

 マクシミリアン・ブーケ隊の名前が並ぶ戦略図や侵入ルートの詳細を見て、ソフィーの胸はざわついた。頭の中で危険な可能性が次々と膨らむ。万が一、隊に何かあったら。それに、サン・マロには宿屋を営む友人たちもいる。

「ちょ、ちょっと待ってください! 少数精鋭の部隊を、なぜこんな危険な任務に……! 頭がおかしいんじゃないですか、司令官!」

 アルフォンスは唇を固く結び、動揺した様子を隠そうとする。だがソフィーの声は止まらない。

「こんなの……、全滅してしまいます!」

 ソフィーは言い切ると一目散に医務室へ駆け出した。医療道具一式を揃え、万が一に備える。中庭に戻ると、リー・ウェンが心配そうにヘイロンの背で待っていた。

「すぐに行こう。無事を確認して、必要なら助ける!」

 馬に跨った二人の影が城門を抜け、ブレストを駆け抜ける。ヘイロンのたてがみが風に揺れ、彼らの決意を告げるように夜明けの空に溶けていった。

 アルフォンスは二人の背が角を曲がって見えなくなるまで、中庭からじっと見送っていた。冷たい風が吹き抜けるのに胸の奥ではようやく息がつけるような、そんな安堵が小さく灯った。

「よかった……。あの人にはまだ、マクシミリアン隊の危険は知らされていない」

 その事実だけが今の彼の精神をかろうじて支えていた。

 もしソフィーが、あのまま知らせを受け取り、マクシミリアン隊と共に前線へ向かうなどと言い出していたら。そこまで考えた瞬間、背筋の芯まで氷が滑り落ちるような悪寒が走った。指先に触れた、温かい布の感触。慎ましい笑顔で手当をし、「これで大丈夫」と呟いたあの声。

 その記憶が胸の底で柔らかく光る。だが、その光は一転して鋭く胸を刺した。

「……彼女まで、危険に晒すわけにはいかない」

 そう思った途端、心の奥深くで、別の色をした何かが蠢き始める。

 忠義のためなら命も惜しくない、そう信じて疑わなかったはずなのに。

 大元帥の命令は絶対だ。任務がどれほど冷酷でも、彼は従う側の人間だ。

 それが揺らいだことなど、一度としてなかった。

 ——なのに。あの人を前線に行かせるぐらいなら、命令そのものを止めたいと思ってしまうのはなぜだ?

 答えの出ない問いが脳裏で渦を巻き、じわじわと呼吸を乱す。

 ソフィーの死を想像するだけで視界の端が暗く閉ざされていく。

 マクシミリアン隊の殲滅計画を聞かされて、眉ひとつ動かさず従えるのに。

 彼らが死地に向かうのは「任務」だと割り切れるのに、ソフィーだけは違う。

 どうして自分は、あの人の死だけは許容できないのだ?

 理解したくない感情が喉もとまで込み上げてくる。

 恐怖なのか、怒りなのか。それとも……もっと黒いものか。

「……くそ……」

 思わずこぼれた声は震えていた。

 自分が従うべき大元帥の命令が、守りたい人を殺す未来へとつながっている。

 その矛盾に胸が灼けるように痛む。忠義が軋んでいく音がした。

 長年積み上げてきた揺るがないはずの基盤が、ソフィーの存在によって崩れ始めている。

 アルフォンスは怖かった。自分がどこまで壊せるのか、どこまで壊れてしまうのかが。


 静まり返った執務室に紙をめくる微かな音だけが残っていた。だがその静寂は、アルフォンスの震える手によって何度も乱される。資料に視線を落としているのに、目は何ひとつ捉えていない。胸の奥では、黒い影が静かに膨れ上がっていた。

 守りたい者を守れない現実。大元帥への絶対の忠義。そして、そのどちらにも収まらなくなった、自分の感情。

「……こんなにも、揺らぐものだったのか」

 思わず、笑いにも溜息にもならない声が漏れた。

 忠義は迷いを許さないはずなのに。それでも今、彼の心ははっきりと揺れている。

 ふと胸の奥底に沈んでいた記憶がひとつ、ゆっくりと浮かび上がった。

 父の声だ。

「主君にただ従うだけではなく、誤りを正し、手を差し伸べ、道を照らせ。——それができてこそ、真の忠義だ」

 幼いころ、誇らしげに剣を振り回していた自分に向けて父はよくそう言った。

 当時は意味がわからなかった。忠義とは、ただ命令に従うことだと思っていた。だが、今その言葉が痛いほど胸に刺さる。

「もしこのまま従えば、彼らは死ぬ。ルノアール軍医も……」

 喉がひりついた。忠義と守りたい者が、初めて真正面から衝突する。

 どちらを選ぶべきか。父の言葉はすでに答えを示していた。

 誤りを正せ。道を照らせ。主君が踏み間違えたなら、黙って従うな。

 アルフォンスはゆっくりと目を閉じ、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。そして、吐ききると同時に迷いが剥がれ落ちた。

「……船を出そう」

 その一言は驚くほど静かで重かった。もう後戻りできない。そんな覚悟の重みが、言葉に染み込んでいた。次の瞬間、アルフォンスは資料を両手で掴み、ぐしゃ、と容赦なく握り潰した。紙がひしゃげる音が、決意の音に聞こえるほど強く響いた。丸められた書類は彼の足元に叩きつけられ、破片が床一面に散らばる。その光景を見下ろすアルフォンスの瞳は、迷いを捨てた静かな光を宿していた。大元帥の命令にも、自分自身の黒い感情にも、どちらにも飲み込まれはしない。

「僕が、道を正す」

 その瞬間、アルフォンス・シャトレは従う者から決断する者へと変わった。

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