第四章④ アルフォンス
夜は深く、ブレスト城の廊下は静まり返っていた。
執務室の窓辺には燭台の炎が揺れ、机に伏せられた報告書の山が影を落としている。
その中で、まだペンを走らせている男がいた。
海軍大元帥エリオット・ド・レオパード。目の下には薄い隈が滲み、その姿勢は崩れない。
「……失礼いたします」
扉を叩く声と共にアルフォンスが入室した。彼の手には重々しい封蝋が施された一通の書簡がある。
「陛下からの書状です」
差し出されたそれを受け取ると、エリオットの瞳がかすかに鋭さを帯びた。
蝋に刻まれた王宮の紋章。何度も見慣れた印象でありながら、やはり背筋を伸ばさせる重みがある。封を切り、目を走らせた。まずは戦勝への労いと感謝、そして「今後も健やかであるように、過労だけはするな」との文言。
エリオットは小さく口元に笑みを浮かべ、やれやれと息を吐いた。だが、読み進めていくうちにその表情が渋く硬直する。
「……『今こそ、サン・マロを奪還せよ』……か。あそこに手を出せば、海が血を吐く」
エリオットの呟いた声が執務室に重く落ちた。
サン・マロ。海賊や無頼の温床として長く放置されてきた地。容易に手を出せる場所ではないことを、彼は痛いほど知っている。王の追伸には「近いうちに討伐隊を派遣せよ」とあった。
「……やはり来たか」
エリオットの瞳は苦く揺れ、机上に書簡を置いた。
アルフォンスが不安げに視線を向ける。
「大元帥……」
「軽々しく触れてよい地ではない。だが、陛下の勅命とあれば拒むこともできまいな」
エリオットの吐息には深い疲労と諦念が滲んでいた。わずかに沈黙が流れる。やがて彼は姿勢を正し、静かに言った。
「明日、イザベルとユルリッシュを呼ぶ。三人で会議だ」
「承知しました」
アルフォンスは即座に一礼した。
「……大元帥、夜も更けております。どうか今夜はお休みください」
アルフォンスの忠告めいた声には主を案じる響きがあった。
エリオットは小さく笑い、手を軽く振った。
「心配性だな、アルフォンス。だが、ありがとう」
アルフォンスは深く礼をすると静かに執務室を辞した。だが、彼自身も今しがた新たな役目を得たばかりだ。自室に戻る足取りの中、彼は思う。
「明日の会議に備え、必要な資料を整えなくては」
夜はすでに更けていたが、眠りに就く余裕はない。彼の小さな決意もまた、明日を左右する一端となるのだった。
アルフォンスは自室に戻ると机の上に紙束と筆記具を広げた。明日の会議のために資料を精査し、議事録の下案を書き留める。
「副司令官は必ず反発するだろう。ルソー准将も意見は強い。大元帥の采配を支えるには、筋の通った整理が必要だ……」
考え事に飲まれて注意が途切れた。紙を裁断していた刃先が滑り——
「っ……」
指先に鋭い痛み。思わず声を呑む。血が一滴、白い紙面に落ちて赤を滲ませた。
「……やっちまった」
咄嗟に机の引き出しを探るが、携帯用の包帯や消毒薬は切らしていた。遠征続きで補充を怠ったことを悔やむが、今さらどうにもならない。
「……仕方ない」
アルフォンスは指を布で軽く押さえて椅子を立つ。深夜の廊下は冷え、扉を開けた拍子に蝋燭の光が壁に細く揺れる。向かう先は、ブレスト城の医務室だった。
アルフォンスは夜更けの医務室へ足を踏み入れた。窓には厚いカーテンが引かれ、灯火だけがぼんやりと空間を照らしている。人気はなく、静寂が支配している……はずだった。そのとき、ベッドの陰から人の気配。アルフォンスの視線が吸い寄せられる。そこに座っていたのは、見慣れた亜麻色の髪と青みがかった灰色の瞳。
「……ルノアール軍医?」
あまりに唐突で思考が追いつかない。
彼女がここにいるはずはない。マクシミリアン隊の宿舎にいるものと思っていた。
それがなぜ、こんな夜更けに、医務室に?
「ど、どうして……ここに……?」
アルフォンスは思わず指の傷を押さえるのも忘れ、呆然と立ち尽くした。声は震え、目は驚愕に見開かれている。ソフィーもまたこちらに気づき、静かに口を開いた。
「お疲れ様です、シャトレ司令官」
彼女の声音は落ち着いていたが、どこか張り詰めている。夜半の医務室で交わされた言葉にアルフォンスは現実感を失いかけた。
「……お、疲れ様……? いや、待ってください……どうして……あなたがここに……?」
胸の鼓動が速くなる。まるで夢の中で問いかけているようで、彼は自分の声が震えていることにも気づかなかった。
アルフォンスは深呼吸をひとつして、落ち着こうと努めた。しかし、目の前のソフィーを見ていると言葉が途切れ途切れになる。
「……えっと、事情を……聞かせてもらえますか?」
アルフォンスの声には穏やかに保とうとする努力が滲むが、内心は驚きと戸惑いでいっぱいだった。
ソフィーは一瞬視線を落とし、唇を噛む。
「……はい。でも、ここで全てを話すつもりはありません」
その声にはかすかな緊張と覚悟が混ざっていた。
アルフォンスはうなずき、少し間を置く。
「もちろん……急ぎではありません。ただ、どうしてここに来たのか、少しでも教えてもらえれば」
ソフィーはアルフォンスを見上げた。長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。
「……家を出てきました。自分でもなぜここに向かっているのか、よく分かりません」
アルフォンスはそっと頷き、椅子に腰かける。
「分かりました。焦らずでいい。落ち着くまで、ここで少し休んでも構いませんよ」
ソフィーは軽く息を吐き、ほんの少し肩の力を抜いた。医務室の暖かさと穏やかな司令官の声に、わずかに心がほぐれていくのを感じる。その時、ソフィーはアルフォンスの指先の怪我に初めて気づいた。
「司令官……その指、怪我を?」
ソフィーが優しく声をかけると、アルフォンスは慌てて指先を見下ろした。
「……ああ、少し切ってしまっただけで」
彼は控えめに答えるが、その目にはわずかな戸惑いが漂う。
ソフィーは躊躇せず手際よくアルフォンスの指を手に取り、消毒液と包帯を取り出した。
「ここは消毒して……包帯を巻きますね」
アルフォンスは視線をソフィーに向け、思わず息を呑む。
目の前の女性は単なる医師ではなく、エリオット大元帥の亡きご子息の友人であり、彼女の手で指先を手当てしてもらえることに内心で特別な感慨を抱いた。
「……あなたに任せても大丈夫ですか、ルノアール軍医」
彼の声に少しの緊張と信頼が混ざる。
「大丈夫です。司令官、少し動かさないでくださいね」
ソフィーは落ち着いた手つきで指先を処置し、包帯を丁寧に巻きつけた。
「……これで大丈夫です」
傷は止まり、清潔に保たれた。アルフォンスはそっと指先を確認し、感謝の気持ちがこみ上げる。
「ありがとうございます。……君の手は確かだ」
彼の瞳はわずかに柔らかく揺れ、医務室の温かい光の中で、信頼と安心が静かに流れる瞬間だった。
ソフィーは軽く微笑み、少し照れたように言った。
「大げさですよ、司令官。ただ手当てしただけです」
アルフォンスはその微笑みを見つめながら、心の奥で胸を撫で下ろすのだった。彼は手をそっと膝の上に置き、ソフィーに向き直った。
「……よければ、話してくれませんか?どうして家出しようと思ったのか」
ソフィーは一瞬、言葉を迷った。胸の中には、マクシムとの言い争いの記憶がまだ熱を帯びて残っていた。
「言える範囲で、ですけれど」
ソフィーは小さく息をつき、視線を落とす。
「隊長と私の間に、誤解が生じてしまったんです。私の存在や気持ちを、軽んじられたように感じて……」
アルフォンスは頷く。言葉の端々に、怒りよりも悲しみや戸惑いが込められていることを感じ取った。
「……なるほど、あなたが傷ついたのは当然です」
静かに、だが力強く言い、ソフィーの手先を見つめた。
「ですが、あなたはここに来た。自分で行動を選んだのですね」
ソフィーは少し肩を落としながらも、頷いた。
「はい……心を整理しようと、ここまで来ました。まだ迷いもあります。でも、誰かに支えられたい気持ちも正直あります」
アルフォンスは彼女の目を見つめ、深い息をついた。
「支えになる、とは言い切れないかもしれない。でも、君の話を聞くことならできる。君がここにいる間は、君を見守ることはできる」
その言葉にソフィーは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます。シャトレ司令官」
小さな声に感謝の色が滲んでいた。
アルフォンスは微笑み、手を軽くそっと動かして負傷した指を再度確認した。
「さて、傷ももう大丈夫でしょう。今夜は少しだけここで休むといい」
アルフォンスは静かに立ち上がった。
「はい……そうします」
ソフィーはその背中を見送り、夜の医務室に残る静けさをかみしめる。ただの医師と隊員の関係以上のもの。信頼、理解、そして互いの心の繋がりを二人は感じていた。
月明かりに照らされる静かな自室。
資料を整えた机の前に座るアルフォンスの手はわずかに震えている。
準備は整ったはずなのに、頭の中では明日の会議で交わされる言葉や決断が次々に脳裏を駆け巡った。
「明日の議題……何から手をつけるべきか……」
声には出さぬ独り言が暗い部屋に溶ける。頭の中で議題を整理しながらも心の奥では、もし些細な判断を誤れば隊や国家に影響する。その重圧がじわりと圧し掛かった。机に向かい、資料に目を落とすアルフォンス。
彼の視線は、いつしか士官学校時代の記憶へと漂った。
卒業間近にもかかわらず、なぜか自分たちより下の学年に入って留年した士官候補生。
その噂は学校中で囁かれていた。
「いったい何をやらかしたんだ……?」
「そういえば、あの人。あの海上実習事故に巻き込まれた人らしいぞ」
アルフォンスの耳に当時のざわめきが鮮やかに甦る。真相を知らぬまま噂だけが彼の心に影を落としていた。
当時のアルフォンスは自分の家系が代々海軍トップの側近を務める役割を担うと決められており、士官候補生でありながら父親から側近としての立場と任務を厳しく叩き込まれていた。
自由に自分の道を選べず、押し潰されそうな日々。
そのため、留年して下の学年に入った先輩が自由に自分の道を選んだことに、どこか羨望を抱いていた。
——自分には許されなかった、小さな贅沢を享受した人。
そう思うと、心の奥底にわずかな憧れが灯る。
自由に選んだ道を歩む”彼”への羨望と尊敬が、より鮮明に胸に残っている。
資料に書き込んだ計算式や議事録のメモを指先で確認しながらアルフォンスは深く息をついた。
「慎重さ……でも、迷いすぎてもいけない」
静寂の中、机に置いた懐中時計の秒針だけが確かな時間の流れを告げる。
夜更けの静けさは心の中の緊張を一層際立たせる。だが、アルフォンスの目には決意の光が宿っていた。どれだけ夜が深くとも、準備を怠れば明日の会議で正しい判断を下すことはできない。
思考を整えながら、彼は机の上の資料に再び目を落とす。議題ごとの優先順位、予想される反論と対応策、必要な資料の補足……一つずつ確認し、頭の中でシミュレーションを重ねる。身体の緊張と心の集中が夜の静けさの中で絶妙に混ざり合った。
「明日の会議……必ず、この手で導く」
アルフォンスの声は小さく、でも揺らぎはない。夜の闇は冷たいが、心の奥には明日への覚悟と責任感が静かに燃えていた。
士官学校時代の記憶、父から課された側近としての役割、そしてあの先輩の選んだ道。
すべて、今の自分の行動を支える確かな支柱となっている。
月明かりの下でアルフォンスは資料を整え、ペンを置いた。心は冷静さを取り戻し、明日の会議に向けた覚悟で満たされている。深く息をつき、椅子に身を沈めた。静寂の中、過去の記憶が胸に微かに影響を与え、慎重さと責任感がさらに研ぎ澄まされていく。
卒業間近、下の学年に入った先輩士官候補生。
自分にとって強烈な存在だった。自由に道を選べる羨ましさを抱えながら、自分は父から課された側近としての責任に縛られ、押し潰されそうになった日々を送った。
今思い返すと、あの自由の影にも責任や困難が伴ったはずだ。それを理解しつつもアルフォンスの心は、過去の羨望と現在の責任感という二つの感情で揺れる。責任と自由の狭間で揺れる自分の姿と重ね合わせ、静かに決意を胸に刻んだ。
窓の外、月光が石造りの壁に淡く反射する。アルフォンスは灯りを落とし、ベッドに腰掛け、静かに夜を過ごした。明日の会議に備え、そしてその先に控える行動に備えながらも、胸の奥では過去の記憶が静かに問いかけ続ける。
——その先輩候補生が“彼”ではなく“彼女”であると判明する日は……もっと後の話である。




