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第四章③ マクシム

「……ソフィーが出て行った?」

 シャルルの声が執務室に落ちた。驚愕というより、現実を受け止めきれず言葉を反復するような硬さがあった。マクシムは机の書類から顔を上げず、沈黙で答えた。その重さに、室内の誰もが息を殺す。

「ジョルジュから報告があったわ」

 リラの声は静かだが、まるで鋭利な刃のように張り詰めていた。副官の立場を超え、長年の軍歴に裏打ちされた先輩軍人の威厳が漂う。

「——ソフィーは家出した、と」

 マクシムの手が机の上でぴくりと止まった。

「……事実か、マクシミリアン」

 呼び捨てしたリラの声には上官でも部下でもない、かつて同じ戦場を駆け抜けた者同士の真正面からの詰問が宿っていた。

「…………」

 マクシムは深く息を吸い、背凭れに沈む。

「……はい。おれのせいです」

 低く押し殺した声が、室内の空気を震わせた。リラの眼差しは氷のように鋭い。だがその奥に、かすかな憂慮が光る。

「事情を聞かせて」

 沈黙の張り詰めた室内で、シャルルさえ口を挟めない。その時、扉が二度ノックされる。

「失礼します」

 ダヴィットが入室し、眉間に皺を刻みながらマクシムへ視線を向けた。

「他の者から聞いた。……ソフィーが宿舎を去ったのは本当か」

 マクシムは掌で顔を覆い、言葉を探す。

「……言い争いになったんです。彼女の心を理解したかった。……でも、結局追い詰めただけだった」

 声は低く、しかし一言ごとに自己嫌悪が混じる。

「……あの嵐の日のことを、彼女が持ち出した」

 一瞬、言葉が止まる。

「僕が……彼女を突き飛ばした日のことです」

 室内の空気が一瞬で凍る。誰もが目を見張った。

 「彼女は僕を冷酷だと罵った。そこで……」

 マクシムは目を伏せる。

「……『いっそ海賊のままでよかったんじゃないか』と、言ってしまった」

 しばしの沈黙。リラもシャルルも固まっている中、ダヴィットの瞳がぎらりと光る。

「——ちょっと来い」

 低く、押し殺した声だった。マクシムが立ち上がると襟を乱暴に掴まれ、次の瞬間、鈍い音とともに頬を殴られる。

「貴様、それでも隊長か!」

 ダヴィットの怒声が執務室に響き渡る。目の前の怒りの熱を全身で受け止めるマクシム。返す言葉はなく、ただ拳の痛みだけが現実を刻む。

「部下を守る立場だろうが! 自分の感情で何を傷つけている! お前の一言で、ソフィーがどれだけ傷ついたか分かっているのか!」

 息がかかるほど近い距離で、ダヴィットの声は怒号となった。

「嵐の日のことを持ち出されて、逆上して……そんなのはただの逆ギレだ!」

 マクシムは目を逸らさず、その視線を真正面で受ける。

「お前が何を背負っていようと関係ない、彼女に向かって『海賊のままの方がよかった』だと? ——ふざけるな!」

 リラもシャルルも立ち上がりかけるが、止めに入れない。ダヴィットの怒りが正しいことを誰もが理解していたからだ。

「ソフィーはお前を信じて戻ってくれたんだ。それを踏みにじって何が隊長だ!」

 ダヴィットは拳を振り下ろさず、代わりにマクシムを胸倉から突き放す。

 マクシムは執務机に背をぶつけ、重い音を立てて揺れた。

 リラがゆっくりと立ち上がり、二人の間に歩み寄る。

「もういい。ダヴィット、気持ちはわかるわ。でもこれ以上は無意味」

 ダヴィットが反論しようとする声を遮り、リラは静かに続けた。

「マクシミリアンの発言は問題。でも、彼女に何があったか直接聞けばいいと助言した私にも責任がある」

 部屋の空気がわずかに和らぎ、マクシムも唇を結ぶ。ダヴィットもまだ怒りを抱えつつも口を閉ざす。

 リラはそのままマクシムを真っ直ぐに見据えた。

「君も覚えておけ、マクシミリアン。隊長として言葉を選ぶのは義務だ。だが、誤ったのなら、正す機会もまた与えられるべきだ」

 マクシムは唇を結び、深く俯いた。リラの言葉に、まだ憤りを抱えたままのダヴィットも口を閉ざした。執務室の空気が重い沈黙に包まれる。

 その沈黙を破ったのはシャルルだった。彼は椅子から腰を上げずに低く確信を帯びて言う。

「今は追うべきじゃない。彼女は怒りの中にいる。追いかければ、互いに言葉を重ねて傷を深めるだけだ」

「……では、どうすればいいのですか?」

 マクシムの声は掠れていた。シャルルが静かに続ける。

「頭を冷やす時間を与えるんです。……彼女が自分で歩み寄れる余地を残さなければ、戻れる道も失われます」

 リラが頷き短く付け加える。

「でも……忘れるな、マクシミリアン。君の言葉が刃となった責任は、最後まで背負うべき」

 マクシムは唇を噛みしめ、黙して答えなかった。リラの言葉が落ち着きを取り戻させるように部屋に染み込み、再び沈黙が訪れた。その沈黙を破るの、やはりシャルルだった。

「……マクシム」

 彼はいつもの穏やかな声音ではなく、敢えて距離を置くような硬さを帯びた声で呼びかけた。

「君はそろそろ、決断すべき時に来ているんじゃないか?」

 マクシムが顔を上げる。鋭い問いに、胸の奥がざわめいた。

「復讐を遂げることと、ソフィーを守ること」

 シャルルの瞳は深い湖のように揺らぎなく、冷静だった。

「どちらも成し遂げたいと願うのは分かる。だが、両方を抱えて進むから迷う。迷うから、言葉を誤る。彼女を傷つけたのも、その結果だ」

「……」

「どちらも抱えて進む余力がないなら、どちらかを選べ」

 彼の声は刃のように静かで容赦がなかった。

「大元帥への復讐か。ソフィーを守ることか。——君の歩む道を、今度こそはっきりさせろ」

 マクシムは答えを返せず、拳を膝の上で握りしめた。心臓が重く、胸を圧迫する。

 復讐も、彼女も、どちらも手放すことは考えられない。だが、どちらかを選べという言葉は確かに心の急所を突いていた。

 再び静寂が訪れる。しかし、その沈黙を破ったのはシャルルでもリラでもなく、ダヴィットの疑問の声だった。

「大元帥への復讐? どういうことだ、マクシム……」

 彼の問いにマクシムは一瞬言葉を失う。だがリラが静かに口を開いた。

「ダヴィット、落ち着いて聞いて。マクシミリアンが海軍に入ったのは、ゼフィランサスを殺したエリオット・レオパードへの復讐を遂げるためなの」

 ダヴィットの顔が一瞬硬直する。

「ゼフィランサスはかつて多民族集団を率いていた。そこへエリオットによって、マクシミリアンは大切な人々を奪われた。復讐のため、長い歳月をかけて海軍に入り込んで、機会をうかがっていた」

 部屋の空気が震える。だが、ダヴィットの反応は静寂を裂くほど鋭かった。

「……じゃあ、今までの行動は全部、復讐のためだったってことか?」

 ダヴィットの声が震えていた。怒りか、悲しみか、自分でも判別できないまま。

 マクシムが顔を上げるより早くダヴィットは息を荒げて言葉を絞り出した。

「俺は……海軍に入ったのは、誰かを殺すためじゃなかった。海賊に家族を奪われた。でも復讐が目的じゃなかった。——姉さんが戦うと言うなら俺も戦うって、ただそれだけだった!」

 リラが目を見開く。

「ダヴィット……」

「なのにマクシム、お前は……!」

 ダヴィットの拳が震える。

「俺たちと同じ場所にいながら、ずっと別の炎を胸に抱えてた。そんな重大なこと、どうして言わなかった!」

 マクシムは息を吸い、反論しようとした。

「言えば、君たちを巻き込む——」

「巻き込んでんだよもう!」

 ダヴィットの声が鋭く跳ねた。

「これだけ一緒に戦って、同じ船にいて、同じ隊にいて……俺たちは仲間じゃなかったのか?」

 一瞬、室内が沈黙に縛られた。

 リラが口を開きかけるが、ダヴィットは姉に向けても刃を向ける。

「姉さんもだよ。どうして俺に言わなかった? 俺は子ども扱いされるほど弱くない。あんたが守るために隠したって言うなら……俺は何のために海軍に来たんだよ」

 リラの眉がわずかに揺れた。その揺れを見たダヴィットはさらに痛ましい声で続けた。

「……姉さんと同じ場所で戦うためだよ。たとえ相手が国家でも、大元帥でも。俺は、姉さんが選んだ戦いから逃げるつもりはない」

 彼の熱にリラもマクシムも完全に言葉を失った。ダヴィットの胸の奥に溜まっていたものが初めて露わになる。誇りとも、恐れともつかない、ひどくまっすぐな叫びだった。彼の叫びが部屋に響いたあと、重たい沈黙がしばらく落ち続ける。だが、その沈黙を破ったのはマクシムだった。

「……ダヴィット。君を信じていなかったわけじゃない」

 マクシムの言葉が火に油を注いだ。

「信じてたなら隠さないだろうがッ!」

 ダヴィットの声が爆ぜ、足が一歩踏み出される。床板が軋むほどの勢いだった。

「俺はお前の下で戦ってきた。命令には従い、信頼してきた。なのに、そんな大事なこと……何で俺だけ知らないままだったんだ!」

「君だけじゃない。誰にも話していない」

 マクシムの声は冷静に聞こえるが、その奥は揺れていた。

「俺たちは隊だろッ! 姉さんには話してたんだろ!? なら何で俺には言わなかった!」

「子ども扱いしているわけではない。ただ——」

「ただ? 俺が足手まといになるとでも思ったのかッ!」

 ダヴィットの怒号にマクシムの眉が僅かに動く。

「……そうじゃない」

「じゃあ何だよ! 言えよ、マクシム!」

 ダヴィットは胸倉を掴む勢いで近づいた。だがマクシムは一歩も退かず、視線だけで受け止める。

「君には、守るものがあるからだ」

「は……?」

 ダヴィットの怒りが一瞬、戸惑いへ変わる。マクシムは淡々と続けた。

「君は家族を失ったあとも、復讐に走らなかった。リラの背中を追い、彼女を守るために海軍へ入った。その信念を……巻き込みたくなかった」

 ダヴィットの表情が歪む。怒りか、悲しみか、自分でも判別できなくなるほどに。

「……ふざけるなよ」

「ダヴィット——」

「ふざけるなって言ってんだよッ!!」

 ついにダヴィットの拳がマクシムの胸を強く押し返した。殴る一歩手前の衝動。空気が震える。

「守るものがあるから巻き込まない? それを決めるのは俺だッ! 勝手に俺の覚悟を代弁するな!」

 マクシムの目がわずかに揺れる。

「……君が傷つく必要はない」

「あるんだよッ!!」

 ダヴィットの怒鳴り声が部屋の天井さえ震わせた。

「姉さんが戦うなら、俺も戦うって決めたんだ! 国家でも、大元帥でも、地獄でも関係ねぇ! お前が復讐に向かうのを、俺は止めない。でも——仲間から外されるのは、耐えられねえ!」

 ダヴィットの告白は荒れ狂う怒りの奥に隠れていた本音だった。

 マクシムは息を呑んだ。返そうとした言葉は——届かなかった。

 なぜならその瞬間、リラが割って入ったからだ。

「二人ともやめなさい!!」

 リラの声が烈風のように吹き抜けた。その鋭さは海軍副官ではなく、姉としての叫びに近かった。彼女は二人の間に立ち、ダヴィットを手で押し返しながらマクシムを静かに睨む。

「この場で怒りをぶつけ合っても、誰も救われないわ」

 ダヴィットが息を荒げたまま言う。

「けど姉さん……!」

「ダヴィット!」

 リラの叱責が一閃する。

「あなたの気持ちは分かる。でも怒りに任せて言葉をぶつければ、マクシミリアンと同じ過ちを繰り返すだけ!」

 ダヴィットは歯を食いしばり、拳を握った。二人の体温がぶつかりあう中、リラが息を整えて続ける。

「マクシミリアン。あなたは確かに彼を巻き込みたくなかったんでしょう。でもそれは——彼を信頼していなかったのと同じことよ」

 マクシムが言葉を失う。続いて、リラはダヴィットを見上げた。

「ダヴィット。あなたの怒りは当然。でも、マクシムが抱えてきたものを、今すぐ理解できるとも思ってはダメ」

 リラの言葉は痛烈だったが、どちらの肩にも等しく刺さった。

 重く息を呑む音が部屋に落ちる。

 そして最後に——沈んだ声でシャルルが口を開いた。

「……ここまでだ」

 彼の一言は海図の上に引く境界線のように淡々としていたが、部屋の空気を一瞬で鎮めた。

 シャルルは椅子からゆっくり立ち上がり、三人を静かに見渡す。

「今、この瞬間に結論を出そうとしても無駄。全員、心が荒れたまま。会話ではなく、傷つけるための言葉が出るだけだ」

 そして、ふっと息を吐くように告げる。

「今日は解散です。冷静になれるまで、互いに距離を置きなさい。——これは仲間を見てきた者としての判断だ」

 シャルルの穏やかながら断固とした声に、三人はようやく動きを止めた。

 怒り、後悔、戸惑い、痛み。それぞれの胸に渦巻くものを抱えたまま、ただ沈黙だけが、部屋に残った——。

 執務室を飛び出したダヴィットは誰もいない廊下の柱に背を預け、ずるずると座り込んだ。怒りの熱がまだ胸の奥で暴れている。だが、その熱を押し流すように別の感情が溢れ始めた。

「……くそッ……」

 唇を噛みしめた瞬間、涙が零れた。

 止めたかった。怒鳴りたくなんてなかった。

 本当は、ただ一言——「俺を置いていかないでくれ」と言いたかっただけだ。

 拳を握り、額を膝につけて小さく震える。

「姉さんも……マクシムも……俺、いつまで経っても追いつけねぇな……」

 自分だけが後ろに取り残される。その悔しさと情けなさが、涙とともに石畳に落ちて染み込んだ。

 執務室の片隅、誰もいなくなった席に腰を下ろすとリラは静かに両手を組んだ。

「……あの子を追い詰めたのは、私」

 マクシムがソフィーに踏み込む前に、「直接聞けばいい」と進言したのは自分だ。

 その結果、二人は崩れ、隊も揺れた。

 自分は副官として正しい判断をしたのか——それとも、仲間を壊しただけなのか。

 胸の奥で鈍い痛みが広がる。

「私が……もっと慎重でいられたら……」

 言いかけて唇を押さえた。

 責任は自分だけではないと分かっている。だが、それでも自分が引き金だった事実は消えない。

 彼女は深く頭を垂れた。落ちる影は壁に揺れる灯火よりも重かった。

 シャルルは廊下をゆっくり歩きながら、胸の奥に冷たい波が押し寄せるのを感じていた。静かに息を吐く。

「このままでは……壊れる」

 ソフィーの家出。マクシムの心の裂け目。ダヴィットの怒り。リラの迷い。

 どれも積み重なった疲労の果てに生まれた亀裂だ。

 近すぎる隊は、一度ひびが入れば脆い。家族のようだったからこそ、なおさらだ。

「……止められるのは、ぼくしかいない」

 静かに肩の力を抜き、空を仰ぐ。海風の匂いが遠くから届き、胸に刺さった緊張を少しだけ溶かした。だが、それでも確信は失われない。

 ——ここが分岐点だ。ここで踏み外せば、この隊は二度と元には戻れない。

 シャルルは拳を握り、背筋をまっすぐ伸ばす。そして、静かに自室へ戻っていった。


 全員が去ったあと。執務室には燭台の炎の揺らぎだけが残っていた。

 マクシムは机に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。強く握りしめた手は震え、先ほど掴まれた胸倉の感触がまだ皮膚に残っている。

「……ソフィー……」

 名前を呼んだ途端、胸が裂けるように痛んだ。

 怒らせるつもりは……なかった。ただ、知りたかった。理解したかった。守りたかった。

 だが結局、自分の言葉が彼女を追い出した。

「おれは……何をやっている……」

 ついに膝が折れ、椅子に深く沈んだ。額を手で覆い、呼吸を整えようとするが、胸の奥から湧いてくる後悔が止まらない。

 あの日の嵐の記憶が、頭を過ぎる。

 彼女を突き放したあの瞬間。そして、今日の自分の言葉。

「また……同じことを……」

 マクシムは顔を伏せ、こぼれ落ちたものが床に小さな音を立てた。

 孤独と後悔が、静かに執務室を満たす。だが、涙を拭うと同時に胸の奥では別の炎が静かに燃え始めていた。怒りでも、悲しみでもない。もっと深い、揺るぎないもの。

 机の上の海図に視線が落ちる。

 その中心には——赤いインクで記された、ある名前。

 エリオット・レオパード。

 マクシムは手を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。

「……そうだ。全ては海軍、そしてエリオットへの復讐のためだ。今もその道を止めるつもりはない」

 膝の上の拳を少しだけ緩め、沈黙の中で視線を落とす。そして低く、力強く言う。

「……おれは、島のみんなの想いを背負ってここまで来たんだ」

 決意の炎が静かに燃え上がる。

「ならば——復讐あるのみだ」

 その響きが室内の暗がりに沈んでいくにつれ、マクシムの内側でひとつの線が静かに断ち切られた。

 守ろうと伸ばした手は届かず、離れていったものの温もりだけが残酷に指先に残っている。

 その喪失が、彼を奪う者へと緩やかに確実に押し上げていった。

 夜気に包まれた執務室の中、彼の影だけがひどく長く、深く伸びていく。


 マクシミリアン・ブーケは、復讐の航路へと舵を切った。

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