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第四章② ソフィー

「え、ここを出ていく?」

 ジョルジュがそう呟いたきり、室内は凍りついた。誰もすぐには動けなかった。

 ソフィーは小さな旅行鞄を机の上に広げ、衣服や本、必要な道具を手際よく詰め込んでいた。表情は怒りに染まり、頬には紅潮が残っている。

「ええ。もうあの人とは一緒にいられない。顔を見ているだけで、息が詰まる。……何を言われるか分からないから」

 ソフィーの声は震えていたが、涙ではなく怒気に満ちていた。

 ジョルジュは戸口に立ったまま、彼女の勢いに飲まれつつ口を開いた。

「待てよ、ソフィー。ケンカくらい誰にでもあるだろ。落ち着けば——」

「これはケンカなんかじゃない!」

 ソフィーは鋭い声で遮った。

「本気なんですか?」

 リゼーヌがようやく絞り出した。

「ええ、本気よ」

 ソフィーは鞄に荷を詰め続けた。声には怒気が混じり、涙の気配は一片もない。

 スザンヌが思わず一歩近づき、震える声で問いかける。

「ソフィーさん……何があったのですか?」

「……あの人は私に言ったのよ。海賊のままでよかった、と。つまり私が海軍に戻ってきたこと自体、迷惑だったの」

 そうとしか受け取れなかった。ソフィーはようやく振り返り、烈火のような視線を三人に向ける。

「そんな場所に居続ける理由なんて、どこにあると言うの?」

 手が震え、鞄に押し込む動作は乱雑さを増していく。だが止められなかった。

「私は……私はここから出る。ブレスト司令部の医務室なら、空きベッドがあるはず」

 ジョルジュも、スザンヌも、リゼーヌも――ただ立ち尽くし、目の前の光景を呑み込めずにいた。声をかけるべき言葉は浮かばず、口を開いては閉じるばかり。

 ソフィーは誰の顔も見ずに荷を詰め続ける。やがて鞄の口を力強く閉ざし、低く言い放った。

「私は司令部の医務室に移ります。ここはもう、私の居場所じゃない」

 その一言を残して、鞄を抱えた彼女は部屋を出ていった。残された三人は、互いに目を合わせることもできず、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。


 ソフィーは鞄を抱えたまま、宿舎の廊下を強い足取りで歩いた。重苦しい沈黙が自室を覆っていたことも、背中に注がれる視線も、いまは気にしていられなかった。宿舎の出入り口に差しかかったところで、不意に影が差す。

「…あら、出かけるの?」

 壁際に寄りかかっていたアニータが、片眉を上げて彼女を見ていた。

「……ええ。ブレスト城の医務室に寝泊まりします」

 ソフィーは短く答える。

 アニータは少し驚いたように目を細め、すぐに含み笑いを漏らした。

「なるほどね。喧嘩したんだ」

 ソフィーは足を止めたが、アニータの視線を避けたまま何も言わなかった。

「まあ、あなたが黙ってるってことは図星ね。…でもさ、隊長も隊長で不器用だから。少し距離を置くのも悪くないかも」

「……」

「大丈夫よ、あなたがいなくても隊は回る。それに、私がみんなの健康を見る。だから、自分の気持ちを優先しなさいな」

 ソフィーは返事をしなかった。ただほんの一瞬だけアニータに視線を向け一礼してから、すぐに外の石畳へと歩み出した。夜風が頬を打つ。

 怒りに燃える心を冷やすことはできないが、それでも足は自然とブレスト城へと向かっていた。夕暮れの石畳を、ソフィーはまるで地面を蹴るように強い足取りで進んだ。胸の奥に渦巻く怒りと絶望が、彼女を突き動かしている。

「ソフィー」

 彼女の背後から声が飛ぶ。グウェナエルだった。振り返らず、ソフィーは吐き捨てるように言った。

「止めないでください。私はもう戻りません。……あの嵐の日に、あなたが私に突き刺した言葉を思い出します。どうせあなたは、今でも隊長の方が大事なのでしょう?」

 そのまま歩き出そうとしたソフィーに、グウェナエルの声が追いかけてきた。

「今、隊長のことはどうでもいい」

 ソフィーの足がかすかに止まった。二人の間に潮風が通り抜ける。振り返らずにいる彼女の背に向かって、グウェナエルはゆっくり言葉を重ねた。

「出ていくお前が心配で声かけただけだ。お前がどこへ行くかはわからんが……もし帰りたくなったら、今度こそ歓迎する」

 ——その言葉は、かつて彼女が隊に戻ったときに浴びせられた冷たい態度とは正反対だった。

 ソフィーの胸の奥に、強く押し殺していた何かがかすかに揺れる。

 だが彼女は振り返らなかった。振り返りかけて、やめた。無言で再び前を向いて歩みを進める。

 石畳に響く靴音だけが、二人の間に残された。


 城門をくぐると、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。石畳を踏みしめ、医務室への長い回廊を進む。高い天井に灯された燭台の炎がゆらめき、足音だけが虚しく響いた。

 やがて扉の前に辿り着く。

「……」

 ソフィーは一度だけ振り返った。暗い夜空が遠くに見え、海の匂いがわずかに漂う。彼女は静かに扉を押し開けた。そこは薬草の匂いと清潔な白布に包まれた、無機質な空間だった。鞄を椅子に下ろし、大きく息を吐いた。

「今夜から、ここが私の部屋」

 返事はなかった。声に出してみると、思いのほか寂しさが胸に迫ったが、あの隊に戻る気持ちは今の彼女にはなかった。

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