第三章③ ソフィーとエリオット
その一言で、ソフィーの世界は崩れた。
胸を押し潰されるような衝撃。視界が揺れ、呼吸が浅くなる。喉に何かが絡みついたように、うまく息が吸えない。
立っていることさえ、難しかった。
エリオットの言葉が現実だと理解するほど、遅れて絶望が押し寄せてくる。
海岸での記憶。幼い日の笑顔。ラウルとの時間。そのすべてが、今この瞬間に断ち切られた。
涙だけが、熱を持たないまま頬を伝う。声は出ない。ただ、何かが胸の奥で崩れ続けていた。
エリオットはゆっくりと息を吐き、沈痛な声で語り始める。
「十九年前のことだ。私の元に知らせが届いた。別荘地にいた家族と使用人たちが、惨殺された状態で発見されたと」
彼は机に手をつき、視線は遠い過去へと沈む。
「犯人は不明とされていた。だが、私の頭に浮かんだのはただ一人——ゼフィランサスだった」
ソフィーの指先が、かすかに震える。
「妻のミレーユも、息子のラウルも……無惨な姿だったと聞かされた。私は悲しみと怒りに飲まれかけた。だが——それでも冷徹であろうとした。そうでなければ、誰も守れないと思ったからだ」
彼の言葉に、ソフィーの脳裏にあの屋敷の光景が蘇る。
荒れ果てた床。壁に残る、乾いた血の痕。
あれが——その時の。胸が強く締めつけられる。
「……あの屋敷で、ラウルは……」
ソフィーの声が震え、最後まで言い切れない。エリオットは静かに頷いた。
「……ああ。あの場所で、すべてを失った」
ソフィーの膝がわずかに揺れる。視界が暗く沈み、呼吸が乱れる。
「……どうして……」
かろうじて漏れた声は、ほとんど音になっていなかった。
エリオットはしばらく何も言わず、ただ彼女を見ていた。やがて、低く語り出す。
「憎しみ——あの時の私は、それに完全に飲まれていた。理性も何もかも失い、ただ復讐だけを考えていた」
エリオットが目を閉じる。
「彼は何も語らなかった。私を見返すその目は……まるで私を哀れんでいるようだった」
彼の指が強く机を掴む。
「その瞬間、私はすべてを剣に込めた。戦陣に立ち、彼と対峙し……自らの手で、首を掻き切った」
空気が、凍りつく。ソフィーは言葉を失ったまま立ち尽くした。重苦しい沈黙が、過去の血の匂いを連れてくるようだった。
「世間は私を英雄と称えた。だが……違った」
エリオットの声が、わずかに揺れる。
「我に返った時に残っていたのは、何もなかった。怒りでも、悲しみでもない。ただ——空虚だけだった」
ソフィーは何も言えない。どんな言葉も、この重さには届かないと分かっていた。
ただ、見ていることしかできなかった。
「……大元帥……」
かすれた声が途切れる。胸の奥で、何かが軋む。
正義とは何か。守るとは何か。そのどちらもが、目の前で崩れていく。
孤児院で抱いていた信念。正しいと思っていたもの。
それすらも、揺らいでいた。
ソフィーはゆっくりと息を吸い、そして言った。
「……私は、この事実を受け止めます」
彼女の声は震えていたが、それでも続ける。
「どれほど苦しみがあったとしても……目の前にある痛みを、否定することはできません」
エリオットの瞳が、わずかに揺れる。それはほんの僅かな変化だったが、確かにあった。やがて彼は、静かに口を開く。
「……ところで、ソフィー。君のその首飾りは、どうして手元にあるのかな?」
ソフィーは首元に触れた。龍と蛇の銀細工。その中心で淡く光る青い石。
「……ラウルからいただいたものです。別れの日に。約束の証として」
エリオットの視線が鋭くなる。
「つまり、君は今もその約束を……」
「はい」
ソフィーは迷わず頷いた。
「これがあれば、必ずまた会えると信じていました」
短い沈黙。エリオットは静かに息を吐く。
「……なるほど」
そして、エリオットは首飾りを見つめたまま言った。
「それは、私が造らせたものだ」
ソフィーの目がわずかに見開かれる。
「ラウルの誕生日に贈った。東洋の龍と蛇……ナーガの象徴だ。アクアマリンには守護の意味を込めた」
彼の声は静かだったが、深い感情が滲んでいた。
「そばにいられない代わりに、せめてこれで見守ろうと……そう思った」
ほんのわずかに、自嘲の色が混じる。
「だが、あれを受け取ったラウルがどう思ったかは……分からないがな」
ソフィーは首飾りを強く握りしめた。冷たい感触の奥に、確かな想いがある。
「……きっと、伝わっています。ラウルは、優しい人でしたから」
エリオットはゆっくりと顔を上げた。
「……そうか」
ほんのわずかに、笑みが浮かぶ。
だがその直後——ソフィーの声が震えた。
「でも……もう、その約束は叶いません」
彼女の視線が揺れる。
「私は……どうしたらいいのか、分からないのです」
手の中の宝石が、かすかに光る。
「この約束も、この首飾りも……意味を失ってしまったのではないかと……」
エリオットは静かにそれを受け止め、低く言った。
「……分かる。私も、同じだ」
部屋に沈黙が落ちる。
「ラウルも、ミレーユも、ゼフィールも……すべてを失った。だが、それを完全に受け止めきれてはいない」
エリオットの指先がわずかに震える。
「今でも、あの時のことを思い出すと——胸に穴が空いたままだ」
ソフィーはエリオットの言葉を静かに受け止めた。
「君だけではない。私もまた、同じ場所にいる」
彼の言葉で、ほんの少しだけ呼吸が戻る
完全な救いではない。だが、独りではないと分かるだけで、わずかに世界が戻る。
エリオットは窓の外へ視線を向けた。
「私は国家のために生きてきた。だがその間に、家族を失った。気づくのが、遅すぎた」
その一言に、すべてが込められていた。
ソフィーの胸が、再び締めつけられる。
「……もう、どうしたらいいのか分からないのです」
こぼれる。
「すべてが……取り戻せないと、理解してしまいました」
涙が落ちる。 止まらない。
エリオットは目を伏せたまま、静かに言った。
「……どう足掻いても、前を向けない時もある」
ソフィーは小さく頷いた。
言葉は、もう必要なかった。
ただ、同じ場所に沈んでいるという事実だけがそこにあった。
風が窓を揺らす。
光はあるのに、届かない。
未来は、まだ見えなかった。




