第三章② 独白
ソフィーはゆっくりと息を整え、言葉を探すように視線を伏せた。
「……幼い頃、孤児院にいた時のことです。ひとりだけ、心を許せる友人がいました」
暗い寝室に、静かな声が落ちる。
「その子は貴族の子で、私は孤児でした。立場はまるで違ったけれど、二人でいる時だけは対等でいられる気がして……それが、何より嬉しかったんです」
エリオットは何も言わない。ただ、沈黙のまま彼女を見つめていた。
「でも私はずっと、その子の生まれや境遇を羨んでいました。綺麗な服を着て、何不自由なく暮らしているその子を見ていると、自分の惨めさを突きつけられるようで……だから、孤児院を出て裕福な家に引き取られると決まった時、どこかで期待してしまったんです。これでようやく、あの子と同じ場所に立てるかもしれないって」
ソフィーは一度だけ息をつき、続けた。
「けれど、その子は違いました。身分の上下なんてなければいいのに、と本気で言うような子でした。私のことを、本当の友達だと信じてくれていたんです」
エリオットの指先がわずかに動く。
「私はその時、そんな相手にさえ自分の劣等感をぶつけてしまいました。……でも、その子は怒らなかった。ただ、別れを怖がっていました。忘れてしまいそうで不安だと、そう言ったんです」
ソフィーの声が、少しだけやわらぐ。
「その時、あの子は私に言いました。『今に強くなる。君が見違えるくらい強くなってやる』って」
寝台が、ぎしりと軋んだ。ソフィーが顔を上げると、エリオットは勢いよく身を起こし、机に手をついていた。視線は逸らされているのに、指先だけが小さく震えている。その変化に気づきながらも、ソフィーは何も言わなかった。
「……続けなさい」
エリオットの押し殺したような声が落ちる。ソフィーは静かに頷いた。
「けれど、約束の日になっても、その子は来ませんでした。最初は、裏切られたと思いました。こんな簡単な約束も守れないのかって」
彼女は少しだけ目を伏せる。
「でも、すぐに思い直したんです。あの子には、私にはいない家族があった。きっと何か事情があったのだろうと。病気だったのかもしれない。叱られて外に出られなかったのかもしれない。あるいは……来たくても来られなかったのかもしれないって」
沈黙が落ちる。
「その時初めて、自分の気持ちではなく、相手の立場に立って考えることができました」
ソフィーは顔を上げ、まっすぐに言った。
「私が人をすぐに善悪で裁ききれないのは、たぶんあの時からです。相手には相手の事情があるかもしれないと、まず考えてしまう。それが、今の私の原点なんだと思います」
しばらく、部屋には暖炉の小さな音だけが響いた。やがてソフィーは、エリオットの顔色を窺うようにそっと声を落とした。
「……大元帥。少し、顔色が優れませんね。カーテンを開けてもよろしいでしょうか」
返事を待つより先に、彼女は静かに立ち上がる。重たいカーテンを引くと、それまで押し留められていた冬の光が一気に差し込んだ。
淡い金色の光が机上の書類を照らし、エリオットの険しい横顔をくっきりと浮かび上がらせる。
その表情は、痛ましいほどに揺れていた。
エリオットはしばらく黙していたが、やがて口を開いた。
「……君には、立場を超えた親友がいたのだね」
ソフィーは小さく頷いた。けれど、彼の瞳は彼女ではなく、もっと遠い過去を見つめているようだった。
「……私にも、かつて親友と呼べる存在がいたよ」
その言葉に、ソフィーははっと息を呑む。以前聞いたことのある話——彼が親友を自らの手で裁いたという告白が、胸の奥によみがえった。
「ゼフィランサス、ですね」
そう口にすると、エリオットはわずかに目を細め、寂しげに笑った。
「……覚えていてくれたか」
彼は机の上に指を置き、軽く叩くようにしながら言葉を探した。
「ゼフィール。私がそう呼んでいた男だ。世間では裏切り者、そして伝説の海賊として語り継がれている。だが私にとっては……ただ、誰よりも自由に、真っ直ぐに生きた男だった」
ソフィーは息を呑んだ。その名は前にも聞いたはずなのに、今は以前よりも鮮やかに響く。
「若い頃から噂の絶えぬ男だった。捕らえられない海賊、軍艦を翻弄し、どの港にも風のように現れる存在……だが、彼はただの荒くれではなかった。奪うためではなく、生き抜くために、見捨てられた者たちと共に海を渡っていた」
エリオットの声には、悔恨だけでなく敬意も滲んでいた。
「力もあった。だが、それ以上に人を惹きつける力を持っていた。皆が彼に従ったのは、恐れからではない。憧れと希望からだ。……だからこそ、彼は伝説になった」
ソフィーは胸の奥が熱くなるのを感じた。
エリオットが語る親友の姿はもはやただの裏切り者ではなく、ひとつの時代を駆け抜けた存在として立ち上がっていた。エリオットはしばし黙り込み、机に添えていた手をゆっくりと握りしめた。
「……そういえば、十八歳以降の話はまだしていなかったな」
低く沈んだ声で続ける。
「時は流れ、我々はそれぞれ違う場所に立っていた。ゼフィールはすでに伝説と呼ばれるほどの存在になっていた。八隻もの船団を率いて、街にも海軍にも喧嘩を売っていたよ。最初の頃は信念に基づいた行動だった。だが、次第に暴力の色を帯びていった」
ソフィーは息を飲む。その声音には、かつての友への惜別と憤りが入り混じっていた。
「一方、私は功績を重ね、参謀官の任にまで就いていた。……ミレーユとも結婚していた。誰が見ても順風満帆だったろう」
そこでエリオットは苦く笑う。
「だが、その矢先に——ゼフィールと再会した」
部屋の空気が、さらに一段重く沈む。ソフィーは自然と身を乗り出した。
「私は彼を説得した。海賊行為をやめろ、今ならまだ間に合う、と。……だが、彼は拒んだ」
エリオットの声が低く震える。
「『オレは探しているんだ。連れ合いと子供を。ある日、二人は忽然と消えた』……彼はそう言った」
ソフィーは目を見開いた。
「ゼフィランサスには、奥さんと……子供が、いたのですか?」
エリオットは重く頷いた。
「表には出ていない事実だ。だが、確かに家族がいた。……もっとも、その消息は今も分からない」
彼は当時の会話をなぞるように目を伏せる。
「詳しく聞けば、妻子を乗せた船ごと消息を絶ったという。彼にとって、そこで足を止めることは妻子を見捨てることと同じだった。……その時のゼフィールの目は、憎しみで燃えていたよ。裏切られたと信じ、奪われたと信じ、怒りと絶望だけで突き進んでいた」
重苦しい沈黙が落ちる。ソフィーが言葉を失ったまま彼を見つめていると、エリオットはぽつりと呟いた。
「だが、理解できる。私にもその時、守らなければならない子がいたから」
ソフィーは思わず息を呑む。
「大元帥、お子さんがいらっしゃったのですか?」
エリオットは一瞬視線を落とし、それからかすかに口元を歪めた。しばしの沈黙の後、天井を見上げるようにして問う。
「君がいたという孤児院は、どこだい?」
「ノルマンディー地方にあるヴール・レ・ロズです。緑豊かな町ですよ」
エリオットはゆっくりと頷いた。その場所の風景を思い浮かべるように目を細める。
「やはり、そうか」
そして今度は、まっすぐにソフィーを見た。
「君に伝えなければならないことだ。私には、息子がいた」
一呼吸置いて、彼はその名を告げる。
「息子の名は、ラウル」
その一言が、ソフィーの胸に鋭く突き刺さった。
「ら……ラウル……?」
震えた声が、かすかに漏れる。
幼い日の笑顔。
海岸で交わした言葉。
ずっと胸の奥に大切にしまってきた友の面影。
それらが一瞬で結びつき、ソフィーの思考を揺さぶった。
「……まさか、あのラウルが……」
言葉は最後まで形にならない。エリオットはただ静かに、その反応を見つめていた。
ソフィーの胸の中では、過去と現在が音を立てて繋がっていく。
あの少年の立場も、貴族の血に由来する気品も、ふとした優しさも——すべてが腑に落ちるようだった。
「ラウル……」
その名を反芻するたび、胸が締めつけられる。
目の前の大元帥が、あの少年の父だった。
その事実だけで、世界の見え方が変わってしまいそうだった。
「彼は、元気なのですか……?」
かすれた声で、ソフィーは問いかけた。その瞳には、かすかな希望が滲んでいる。だが、返ってきたのはあまりにも残酷な言葉だった。
「ソフィー。今日、君をここへ呼んだのは、話さなければならないことがあるからだ」
ソフィーの胸の奥で、何かが凍りつく。
「一体……何でしょう。これ以上に驚くような話が、あるのですか……?」
エリオットは低く、重い声で言った。
「ソフィー、申し訳ない」
そして——
「ラウルは、この世にいないんだ」




