表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/71

第三章① ソフィーとエリオット

 ブレスト城の寝室は、昼前だというのに光をほとんど失っていた。

 厚いカーテンが冬の淡い陽を遮り、部屋は暗がりに沈んでいる。暖炉の火も弱く、揺れる炎が壁に影を落とすばかりだった。埃と古い書類の匂いに、薬と香料がわずかに混ざり、空気は重く淀んでいる。

 ソフィーは石畳を踏みしめながら、静かに歩を進めた。一歩ごとに、胸の奥の緊張が研ぎ澄まされていく。部屋の奥、ベッドに横たわる影。その存在だけが、闇の中で際立っていた。

「……大元帥。私です、ソフィー・ルノアールです」

 ソフィーの声は低く、慎ましく放たれ、闇に吸い込まれる。返事はないが、わずかな気配だけがそこにある。彼女は目を凝らし、さらに歩み寄る。やがて、ベッドの上の輪郭が浮かび上がった。

 闇の中で、片目だけが微かに光を返す。

「……ソフィーか」

 エリオットの低く重い声が落ちた。その響きは、空気そのものを震わせる。

「大元帥。先日の件について、報告を」

 ソフィーは視線を逸らさず、暗がりの中の彼を捉えようとする。

 エリオットはゆっくりと上体を起こした。その動作だけで、空気がさらに重く沈む。

「フェルナンドの処刑を目にしたのか……」

 彼の声音には、怒りとも悲しみともつかぬ感情が絡んでいた。

「はい。遠くから見ました。恐ろしかったです。ですが……ただの恐怖ではありませんでした。大元帥の意図も、少しだけ理解できた気がします」

 しばしの沈黙。エリオットは天井を仰ぎ、低く言った。

「……民の熱狂、善悪の断罪。あれは誰かを試すためではない。ただ、真実を見た者が覚悟を持てるか——それを確かめたかっただけだ」

 ソフィーは小さく頷く。

「……私は、独りで逝かせたくなかったのです。だから、あの場にいました」

 軍医としてではない。自分の意志で選んだ言葉だった。

 エリオットは目を細め、わずかに頷く。

「一時とはいえ……共に過ごした人間が群衆に裁かれ、嘲笑と憎悪の中で死んでいく様を見たのだろう」

「はい」

 ソフィーは静かに答える。

「彼は……最期まで、凛としていました。自らの信念を、貫いて」

 エリオットは闇の中でゆっくりと視線をソフィーに向けた。目は暗く深く、長年の戦場で刻まれた悲しみと覚悟の影を湛えている。

「君は、群衆から何を学んだ?」

 エリオットは微かに眉をひそめ沈黙を挟み、低く問いかけた。ソフィーは胸の内を整理しながら答える。

「……人の本性の一端です。恐怖、憎しみ、興奮——すべてが、死の前で露わになっていました」

 エリオットはさらに踏み込む。

「では、君はどう感じた? 悲しみか、怒りか、憎しみか」

 ソフィーは一瞬だけ目を伏せた。

「……悲しみです。憎しみや怒りは……彼の信念を知ることで、抑えられました」

 エリオットは遠くを見る。

「私は、この軍で多くの仲間を見送ってきた。覚悟していたことだが……慣れはしない」

 彼が深いため息をついた後、溢れるように言葉を紡いだ。

「慣れたのは、“いない”という事実だけだ」

 彼の言葉に、かすかな寂しさが滲んだ。

 ソフィーは静かに口を開く。

「……私たちも、部隊員を一人失いました」

 彼女は言葉を押さえながら続ける。

「その後、実家を訪れ、墓前に祈りを……全員で」

 エリオットは小さく頷いた。そして、視線を戻す。

「君は以前、五鬼衆を人間だと言ったな。……今でもそう言えるか?」

 ソフィーは顔を上げる。その瞳には迷いがなかった。

「人間です。海賊も、民衆も、そして私たちも。誰かを思う心がある限り、それを信じたいのです」

 エリオットは息を吐く。

「……だが、秩序は守らねばならない。理由があろうと、他者を害する者を放置はできぬ」

「はい」

 ソフィーは頷く。

「それでも……理解したいのです。赦すわけではありません。ただ、知ろうとしたい」

 彼女の言葉に、エリオットの目がわずかに揺れた。

「……君は眩しいな」

 短い一言だった。だが、それは確かな肯定だった。ソフィーは続ける。

「私が出会った海賊たちは……生粋の悪ではありませんでした。追われ、選ばざるを得ず、海に出た者もいたはずです」

「それでも、手を下せるのか?」

「……はい」

 ソフィーは沈黙し、目を伏せながらもゆっくりと頭を上げる。暗闇の中、彼女の瞳は決意で光っていた。

「だからこそ、まず人として見るのです。理由を知り、理解しようとすること——それが、私の選ぶ道です」

 エリオットはしばらく沈黙し、やがて頷いた。

「……なるほど。そういう目で世界を見る者もいるか」

 エリオットの声は、わずかに柔らいでいた。闇に沈んだ部屋の中で、二人の間に静かな理解が通る。ソフィーは胸の奥で、己の覚悟を確かめていた。

 ——人として見る。それでも、止めるべき時は止める。

 その両方を抱えて進むと、決めていた。

 エリオットはベッドの上でわずかに身を起こし、低く響く声で問いかけた。

「君のその考え方は、どこから来たんだい? そう思える理由は何だ?」

 ソフィーは小さく息をつき、視線を落とした。

「……海賊と出会ったことが、すべてを変えたのだと思います」

 そう答えながらも、その声にはもっと根源的な響きが混じっていた。

「でも……もしかすると、その始まりは私が孤児だったことにあるのかもしれません」

 エリオットは何も言わず、静かに彼女を見つめている。ソフィーは言葉を継いだ。

「孤児院で過ごしていた頃、私はいつも食べるものに困っていました。でも、盗むことだけは絶対にしませんでした。食べられる野草を探して、間違っていることは間違っていると、はっきり口にしていたんです」

 薄暗い部屋に、彼女の声だけが静かに響く。

「その頃から私は、人を善悪で切り分けるような性質を持っていたのかもしれません。悪だと思えば見過ごせない。正しいと思えば助けたい。——そういう気質が、私を形作ってきたのだと思います」

 少し間を置いて、ソフィーはゆっくりと顔を上げた。

「孤児院での生き方は、私にとってごく自然なものでした。そして海賊と出会って、彼らの事情を知ったことで、人を見る目がさらに深まったのです。生きるために海へ出ざるを得なかった人たちを、ただ悪だと断じることはできませんでした」

 エリオットは静かに息を吐いた。

「なるほど……そうして君は、善と悪の狭間で揺れる者たちを、ただ人として見ようとするのか」

 ソフィーは頷き、息を整える。

「はい。誰もが、それぞれの事情と痛みを抱えている。私はそれを理解したうえで、行動したいのです。——海賊も、民衆も、私たち自身も」

 部屋の闇はなお深かった。それでも、ソフィーの言葉はその暗がりにかすかな光を差し込むようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ