第二章⑤ ソフィーとグウェナエル
宿舎の廊下を静かに歩きながら、ソフィーは心の中で不思議な胸騒ぎを覚えていた。
まだグウェナエルが現れないことに違和感を抱きつつも、隊長の指示に従って宿舎内の部屋を一つずつ確認していく。
「……ここにもいない」
ノックの音に応答はなく、扉を開けても空っぽの部屋が続く。衣服や小物は整っているが、本人の気配はどこにもない。階段を上り、食堂を確認し、廊下を行き来してもグウェナエルは見つからない。
最後に残された場所、中庭。冬の空気に包まれた石畳の向こうにソフィーは足を踏み入れる。淡い光が東の空から差し込み、雪に反射して周囲を柔らかく照らしていた。
そこに、遠目に立つグウェナエルの姿があった。
ソフィーは思わず立ち止まった。
いつも戦場で見ていた彼とは、どこか違う。沈着で冷静な佇まいはそのままなのに、何かが変わった。胸の奥がざわりと揺れ、心臓がほんの少し早鐘を打つ。目の前の彼を見つめる自分の視線が、自然に手元の服の裾に落ち、どう動けばよいか一瞬迷う。
「……何が、変わったのだろう」
そう思う間にも足元の雪がわずかに崩れる音が耳に届く。
彼はこちらに背を向けて立っているが、その後ろ姿に漂う凛とした気配にソフィーは息を飲む。そして、視線を上げた。
雪の白さに映える彼の髪、灰色がかった銀色の髪が短くなっていた。
朝の光を受けてかすかに光を反射している。前髪は額を軽く覆い、顔の輪郭を引き締める。頭の上から側面にかけて自然に段差が入り、柔らかく動く髪は、耳の周りはすっきりと整えられ、首筋に向かう毛先は軽くカールして落ちていた。
ソフィーの胸がぎゅっと締めつけられた。雪の白さに映えるグウェナエルの、短く整えられた灰色がかった髪は朝の光を受けてわずかに揺れ、以前の長い髪の面影はもうなかった。
その変化がただの髪型の違いではないことを瞬時に理解した。
思わず心の奥がじんわり熱くなる。目の前のグウェナエルは確かに同じ人間なのに、まるで違う存在のようにも見えた。
長い髪に隠れていた鋭さと決意が、今はすべてを剥き出しにして立っている。
かっこいい、そう自然に思う自分に気づき、ソフィーはほんの少し笑みを漏らした。
戦場を駆け抜け、長い時間を共にして結ばれていた髪はもうなく、代わりに現れた短く整えられた髪が彼の覚悟と新たな一歩を静かに物語っていた。
ソフィーは思わず一歩近づいた。その瞬間、足元の雪を踏む微かな音が冷たい朝の空気に溶けて響く。
その音に気づいたのか、グウェナエルがゆっくりと振り返る。冬の光に淡く照らされたその顔と、深く澄んだラピスラズリ色の瞳がまるで凍てついた空気を貫くようにソフィーを射抜いた。
その瞬間、ソフィーは彼から目が離せなくなった。彼の凛とした表情の中に漂う覚悟と静かな威厳を間近で見つめるだけで、心の奥で何かが弾けるように震える。
「……あ、あの……」
ソフィーは声を出そうとしたものの言葉がうまく出なかった。頬の熱さだけが残り、冬の空気にもかかわらず心はぽっと温かくなっている。
グウェナエルは微かに口角を上げ、冷たい空気に溶け込むように柔らかな声を漏らした。
「朝が来るたびに、お前もやってくる。……長い夜を切り裂く、一筋の光のように」
彼の瞳は確かにソフィーを追っていた。昼間の眩しさとも夜の闇とも違う、彼女だけの明かり。
「その光に、俺も少しだけ救われているのかもしれない」
彼の言葉は静かに空気を震わせるだけだったが、ソフィーは頬に火を灯したまま、心臓の高鳴りと視線の熱さに気づきながらも何とか言葉を絞り出した。
「えっと……その……髪が……ない……」
グウェナエルは笑みを浮かべたまま薄く目を細める。
「……やれやれ。お前は相変わらず、余計なことばかり気にするんだな」
そして、彼は指先でさりげなく自分の髪の毛先に触れる。雪に反射する淡い光に照らされ、銀色の短い髪が静かに揺れる。その仕草を見たソフィーは好奇心を抑えきれずに口を開く。
「……髪、切ったんですね。切るの面倒くさがってたのに、なにか心境の変化でもあったんですか!?」
グウェナエルは肩の力を抜いて視線を下ろす。
「心境の変化、か……まあ、夜明けと共に訪れる決意、というところかな」
ソフィーは恥ずかしさを少し抑え、今度は真剣な声で尋ねた。
「……どんな決意ですか?」
グウェナエルは雪に反射する朝の光を眺めながら静かに答える。
「過去との決別とこれからの覚悟、両方だな」
ソフィーが息を飲む間もなく、彼は不敵な笑みを浮かべて続ける。
「それに……せっかくの式典だってのに、いつまでも長い髪のままだと格好悪いだろ」
その瞬間、ソフィーの頭の中で普段から髪を結ぶ人物たち。
シャルル、ダヴィット、サミュエルの三人が戦場を駆け抜ける姿が一気に浮かぶ。
「……あっ、なるほど。グウェナエルさん、今ので何人か完全に敵に回しましたね?」
彼女の声には照れと苦笑が混ざり、グウェナエルは軽く笑いながら答える。
「そういうところはやけに鋭いんだよな、お前」
ソフィーは視線を逸らさずに問いかける。
「……で、誰に切ってもらったんですか?」
グウェナエルは肩をすくめて淡々とした口調で答える。
「もちろん、自分で」
彼の言葉にソフィーは思わず手元をもぞもぞと動かし、落ち着かない様子を見せる。
グウェナエルはそれを見逃さず、ゆっくりと身を屈めてソフィーの顔と目を真っ直ぐ捉える。
普段、身長差で自然に見下ろす彼が今だけはソフィーと同じ目線で世界を見ている。
彼は微かに挑発的な笑みを浮かべて言った。
「どうした? 何か言いたげだな」
ソフィーは目を見開いて息を飲む。思わず口を開きかけるが、言葉がうまく出てこない。
グウェナエルのいたずらめいた視線が、いつの間にか彼女の心まで見透かしているようで胸の奥がじんわりと熱くなる。彼女は意を決したように言った。
「えっと、その……よく似合ってます! ……とても」
グウェナエルは一瞬、瞳を細めて微笑み、穏やかな声で返す。
「ありがとう、ソフィー」
彼の言葉には単なる礼以上の意味があった。彼女が恥ずかしがりながらも本心を口にしたことをすぐに読み取り、心の奥で満足そうに頷くグウェナエル。
「……ふむ、これでいい。お前の隠された感情を、うまく引き出せた」
ソフィーの頬がますます熱を帯びる。言葉に詰まりつつも素直に褒めた自分の勇気が、グウェナエルの満足げな視線に見事に捕まったのだ。思わず小さく頬を膨らませ、指先で自身の髪の毛先を弄りながら唇をとがらせて少し拗ねたような表情を浮かべる。
「……なにそれ。ほんと、いじわるなんだから」
彼女の声は拗ねたようでいて、どこか愛らしい響きを帯びていた。長いまつげが揺れるたび、冷たい冬の朝の光に照らされてキラリと瞬く。
グウェナエルはその言葉に一瞬、胸を打たれたように目を細め、微かに息を飲む。
「……っ」
普段は冷静で鋭い彼が、ソフィーの無自覚且つ容赦ない一言にまさかのクリティカルヒットを受けて心の奥がざわつく。彼女の仕草、表情、声がグウェナエルにとっては長い夜の先に現れた朝のように柔らかく、眩しく映った。ほんの少しの頬の赤み、拗ねた口元、微かに震える手が彼の理性を軽く揺さぶる。
「……お前、ずるすぎるぞ」
グウェナエルは一瞬、息を詰めた。次の瞬間、心臓がわずかに跳ね、呼吸の間が狂う。
「皆を待たせてるみたいだな。そろそろ行かないと」
グウェナエルが慌てて告げ、ソフィーの真横を通り過ぎる。その瞬間、ソフィーは胸の高鳴りを抑えきれず、思わず顔を近づけた。
「……グウェナエルさんの髪、ちょっと触ってもいいですか……?」
グウェナエルの胸が跳ね上がる。普段は冷静な彼の瞳にほんのわずかの迷いが浮かぶ。視線を下げると、ソフィーは無意識に髪の流れや質感に目を細めている。息を止めて、少し身を乗り出すその姿は彼の心にじんわりと刺さった。
「……!」
思わず肩の力が抜けかけるが、すぐにグウェナエルは深呼吸し、真剣な表情を取り戻す。肩を正し、視線を前方に戻す。
「……行こう。待たせるわけにはいかない」
ソフィーは少し照れ笑いを浮かべ、でもなおその目を彼の背中に注ぎ続ける。
二人の間にはまだ余韻と互いの存在を意識する、静かで温かな緊張が漂ったまま中庭を後にした。




