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第二章④ グウェナエル

 宿舎の執務室には冬の淡い光が窓から差し込んでいた。

 暖炉の火は控えめに揺れ、空気はわずかに温かい。

 マクシムが机の書類に目を落としていると、ノックの音とともにアルフォンスが静かに入ってきた。

「失礼します、マクシミリアン・ブーケ隊長」

 重厚な声にいつもの落ち着きがある。

「アルフォンス司令官、今日はどういったご用件でしょうか?」

 マクシムが顔を上げる。

「ボナパルト副司令官とルソー准将より伝言です。まず、今回の海賊との戦闘において、シャルル・ド・ヴィトン少尉とグウェナエル・ブランシェ殿の尽力が非常に目覚ましかったとのことです」

 その場にいたリラが思わず息を呑む。

 アルフォンスの指令に従い、マクシムは直ちにグウェナエルとシャルル、それになぜかソフィーを呼び出した。

 シャルルは昇進を、グウェナエルには階級と戦功が与えられることを告げた。

 その瞬間、グウェナエルは信じられないという顔で目を見開く。

 アルフォンスはシャルルに向かい、静かに告げた。

「シャルル・ド・ヴィトン少尉、あなたはあの戦闘において奇抜な作戦を考案し、現場でも作戦指揮をとった活躍ぶりから、ルソー准将が推薦であなたを昇進させたいとのことです」

 続いて彼はグウェナエルに向かい、言葉を継ぐ。

「ブランシェ殿には、正式に軍籍と階級を与えるとのことです。こちらはボナパルト副司令官からの推薦です。お二人のことは、病床に臥した大元帥エリオットからも認可を受けています」

 グウェナエルの顔には一瞬、戸惑いと不安が混ざった表情が浮かぶ。

 長年、身元不明の異邦人として階級も軍籍も与えられず、ただ戦場で戦い続けてきた彼にとってこれは初めての公式な評価だった。

「俺に、階級を?」

 グウェナエルは言葉を探すように視線を落とす。

 マクシムはにこやかに微笑み、手を軽く肩に置いた。

「よかったですね、グウェナエル。あなたの努力が、正式に認められるんです」

 リラは控えめに頷き、ソフィーも微笑みを浮かべる。部屋の空気にほのかな安堵と温かさが流れた。

 アルフォンスは続ける。

「授与式は明日の朝に行うそうです。隊長たちもぜひ立ち会ってください。それから、大元帥エリオットがソフィーさんに会いたいとのことです。お二人の授与式の後にお時間を取っていただけると」

 ソフィーは少し息を飲み、視線を遠くに向けた。自分も呼ばれたのはそういうことか。

「……わかりました。明日、伺います」

 マクシムは肩の力を抜き、軽く笑った。

「奇策ばかり練っていたあなたが昇進とは、人生ってわからないものですね」

 シャルルは笑みを浮かべ返す。

「なに、立場は変わっても作戦はいくらでも考案しますよ」

 マクシムの視線はグウェナエルに移る。

「それにしても、グウェナエル。あなたがここにいるだけで隊の士気も違っていた」

 マクシムの言葉を受けたグウェナエルは俯いたまま小さな声で答える。

「俺は……ただ、皆の力になりたかっただけです」

「それで十分なんですよ」

 マクシムが優しく返す。ソフィーも頷き、リラは軽く微笑んだ。

 アルフォンスは少し微笑んでから軽く頭を下げた。

「それでは、明日を楽しみにしていてください」

 彼が部屋を出ると静寂が戻る。

 その沈黙の中には、これまでの戦いで得られなかった安心感と新たな責任の重みが混ざり合って漂っていた。

 グウェナエルはまだ戸惑いを抱えつつも初めて与えられた軍籍の重みと仲間たちの眼差しに支えられ、ゆっくりと胸を張った。

 ソフィーは彼の隣に立ち、そっと声をかける。

「明日、堂々と受けてくださいね」

 グウェナエルはいつも通りの鋭い目つきの中にかすかに微笑み、ゆっくりと頷いた。


 真夜中。宿舎の一室には、かすかな灯りだけが揺れていた。

 窓の外では雪が静かに降り続き、闇の中に白い粒が絶え間なく舞い落ちている。その気配は、時が止まったかのような静寂を部屋に満たしていた。

 授与式を翌朝に控えたグウェナエルは、自室の机に灯した小さな燭台の前でじっと座り込んでいた。

 眠気はとうに去り、胸の奥では言葉にならない重さが渦巻いている。

 鏡に映る自分を長いあいだ見つめ続けていた。

 そこにあるのは、今この瞬間だけは二十六歳の青年として在るかのように鮮明だった。

 一度戦死してなお生かされ、そこから何十年と時が過ぎた今でも当時の若さを残しつつも、鏡に映る顔には幾度も死地をくぐり抜けた者だけが持つ陰影が刻まれている。

 瞳には過去の影と未来への不安が重なり合っていた。肩まで伸びた長い髪が鏡の中でゆらりと揺れる。

 彼が海軍に拾われて以来、戦場を駆け、血と煙と喪失をくぐり抜けた歳月の証だった。

 一本ごとに記憶が宿り、肩にかかる重みが、そのまま過去そのものの重さに思えた。

 ——これを背負ったまま、新しい一歩を踏み出せるのか。

 胸の奥で静かな問いが響く。

 彼は深く息を吐き、机に置かれていた鋏に手を伸ばす。冷たい鉄の感触が指先に伝わった瞬間、部屋の静けさはより一層際立った。


 夜明け前の空はまだ暗く、雪はしんしんと降り積もっていた。

 宿舎の前には、マクシミリアン隊の面々が式典用の正装に身を包み、静かに整列している。

 黒い軍服の肩や帽子には白い雪が淡く積もり、吐息は白く空に散った。しかし、その列には一人だけ欠けていた。

「……まだ来ないな」

 マクシムが小さく呟き、視線を宿舎の暗い窓に向ける。

 誰も言葉を返さない。ただ全員の胸中に同じ疑問が浮かんでいるのが伝わった。

 なぜかそのとき、マクシムはソフィーを振り返る。

「ソフィー。中を探してきてください」

 突然の指名に彼女は思わず瞬きをした。

「……私が、ですか?」

「そうです。あなたの方が見つけやすいでしょう」

 理由は告げられないが、マクシムの声色には揺るぎない確信めいた響きがあった。隣に並ぶ隊員たちは一様に意味ありげな眼差しを交わす。けれど誰も口を開かない。静寂の中にわずかな雪の音だけが降り積もっていく。

 ソフィーは胸の奥に小さなざわめきを覚えつつ、宿舎の扉に向かって歩き出した。やがて彼女が扉の向こうに消えると、隊員たちの間に軽い笑みが広がる。

「いやあ……」

 シャルルが小さく肩を揺らして、マクシムに耳打ちするように言った。

「隊長も、なかなか人が悪いですね。策士ですよ、ほんと」

 マクシミリアンは目を細め、口元に笑みを浮かべる。

「……あなたに言われたくないですね」

 二人は視線を交わし、雪の中で微かにイタズラめいた笑い声を漏らす。

 式典の緊張感とは無縁の、ほんのひとときの余裕がそこにあった。

 周囲の隊員たちは二人のやり取りに気づきつつも無言のまま微笑み、静かな雪の朝に溶け込んでいく。

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